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福と禍 | |||
1. きりなし話 |づもな||戻る| |
座敷わらしと言うよりも、一休さんのような賢い子供がいて、いつも大人の方が一本取られていた。 子も孫も居ない、庄屋は、なにかにつけ、この子をそぱに寄せ、まるで可愛い孫同様、甘やかしていた。 「能無し親父の、子供とも思えない、お前は利口な子だ。話も面白いし、いつ聞いても飽きないように話す。どうだ、今日は俺を飽きさせて、居眠りさせるような話をしたら、この一両、褒美にあげるから、一所懸命にやってみなさい」と、庄屋が言った。するとニヤッと笑ったその子は、語り始めた。 「…秋になったら、庄屋様の庭の、栗の毬がパクッと□を開けて、西風がフーっと吹いてきたら、中の栗がポトンと落ちて、コロコロコロっと転がって、前の池にポチャンっと。次の毬が、パクッと□を開けたら、西風がフ‐っと吹いてきて、中の栗がポトンと落ちて、コロコロコロっと転がって、前の池にポチャンと。次の毬もパクッと□を開けて…」 日中から始まった話しは、栗の実が無くなるほど、晩まで繰り返し繰り返し続けた。その内に、チャリーンと音がして、居眠りをしていた庄屋様の手元から、小判が落ちた。 |
2. 尽きずの小袋 |づもな||戻る| |
近所からは、上に二文字、下にも二文字付くぐらいの正直で、お人好しの爺と婆がいた。 その評判につけ込んで、近所だけでなく、遠くからも「子供が五人居て、一ヵ月も米の飯を食べてないから、五升でも五合でも、出来秋(収穫時)まで…」とか、挙げ句の果てには七回も、姑の葬式代を貸してくれと言ってきたので、「なんと嫁の実家の親を入れても(葬式は)四回だろう」と、やんわり断ろうとしたら、「なーに、姑の居る、七回目の引き出し嫁(引き出しのように何度も出たり入ったりする嫁)を貰ったもんで」と答えた。 爺と婆が米櫃を覗いてみたら、とうとう明日の朝食べるぐらいしか(米が)残っていなかった。そこへ晩に、まるで火箸のような男が入ってきて、「死ぬ前に、真っ白いご飯を満腹に食べたら、地獄に落ちてもいいから…」と、炉端に倒れ込んでしまった。 その男は、爺と婆の残りの米まで、ぺろりとたいらげて、さっさと居なくなった。ため息をついていた爺と婆に、炉の焚き口の脇に落ちていた小袋が、目に入った。あわてて追いかけてみたが、火箸のような男の影はなかった。 小袋に、何が入ってるのかと、手を入れてみたら、一握りの米が出てきて、何度手を突っ込んでみても、出るわでるわ、尽きずに米やお金が出てきて、大変裕福になり、ますます慈悲深い爺婆だと、評判になった。 |
3. 儲かる頭 |づもな||戻る| |
怠け者の男が、ボーっとして、稲刈りの終わった田の畔を歩いていた。夕暮れで、烏も塒へ向かいはじめた。その烏の群れが糞をして、怠け者で愚かな男の頭に、ボッタリ落とした。そんな男だ。たから、頭に糞を落とされたのも、気が付かなかった。 翌年になったら、男の頭に柿の木が生えた。糞に柿の種が混じってて、肥料も利いたんだろう。秋にたくさん柿がなり、それを売って大儲けをして、酒を飲んだ男は、野道に寝ていた。 妬んだ若者たちが、男の寝ているうちに、頭の柿の木を切ってしまった。すると、なんと霜の降る頃に、切り株に、茸が生えてきた。「柿の木モタシ」とでも言うんだろうか。男は、今度はそみ茸を売って歩いて、面白いほど儲けた。 「なんで、あの怠け野郎ばかり儲けて」と、腹が立つから、皆で男を、取っ捕まえて、頭の柿の木の根っ子を抜いてしまった。なんと、また翌年になったら、根っ子を抜かれた男の頭に水がたまってて、舐めてみたら、香りのいい酒だった。 この酒は、汲んでも汲んでも湧いてきて、怠け者の男は、ますます大儲けをした。 |
4. 年越の火 |づもな||戻る| |
働いても働いても裕福にならない、子供の無い夫婦が居た。あっという間に年越しの晩を迎えたが、いつものように、雪のようなご飯も、油のような酒も無くて過ごさねばならなく、夫婦は顔を見合わせて、ため息をついていた。 大晦日の夜が更けて、次第に冷え込んでくるし、ご馳走もなければ、炉に燃やすものも無くなってきた。年越しだから、せめて寝る前に、体だけでも暖めようと、最後に残っていた(空の)炭俵を、炉で焚いた。 炭俵だから、とてつもなく燃え具合が良かった。明かりも無い家の中が、急にバーっと明るくなったと思ったら、突然戸口を開けて、小さな子供のような姿が、出ていった。 「何だ! 内に子供が居ないのに、どこの子供だったろう」「なんと、隠れるところも無い、こんな小さな家の、どこに居たんでしょう」と夫婦は不思議に思ったが、年も明けるからと、寝てしまった。 丑の刻(午前二時)頃か、戸□の外で、ガタッ、ゴトッと何か音がした。「何だ? 何の音だ?」と、妻は亭主を突いた。「誰だ!」と、いきなり外に出て見たら、なんど、家の軒下に米俵や、箱ごとの魚だのが、たくさん積んであった。 それが評判になって、それにあやかろうというので、この辺では、大晦日の晩には、うんと(囲炉裏で)火を焚くようになった。 |
5. 雀と燕 |づもな||戻る| |
東京へ娘を出してやったら、時季に帰ってくるたび、驚いた。なんといっても髪の毛は金ピカだし、顔は真っ黒く塗って、目の周囲は真っ白く縁取って、ポックリ下駄(踵の高い)の親方みたいな、靴を履いてきた。外国人かと思った。 雀と燕という姉妹が居た。姉の雀は、寒ければ寒いなりに着膨れして、そこここで働いていた。妹の燕は、 「私は寒い所は嫌だ」と、暖かくなるまで、南の方へ行って働いていた。 やっと春めいてきた矢先、急に「ハハキトク」という知らせがきた。姉の雀は、あまり遠くへも行っていなかったから、ろくに化粧もしないで、急いで来たが、南の方へ行っていた妹の燕は、「あーあ、実家の方はまだ寒いだろうに、なんでこんな季節に、母も具合が悪くなるんだろう」と、ぐずぐずして、丁寧に化粧などしてから、帰る準備をしていた。 母は死ぬ間際に、遺言のように、「雀や、お前は秋になると、百姓から嫌われるが、母のことを、心配してくれた良い娘だから、これからも米を食ってもいいよ」と言った。燕は、葬式が終わる頃に帰って来たから、和尚に怒られて、蚊やミミズしか食えなくなった。 ガングロとかヤマンバのような化粧も流行ったが、素顔と素直が一番だ。 |
6. 雁取り爺 |づもな||戻る| |
この話しは、「上の爺、下の爺」とも言って、長々として、「尻取り」話しのようなのだ。金が猪になったり、檪が松になったりするが、こんな話だ。 ―上の爺が川に魚捕り籠を仕掛けたら、魚ではなく小犬が掛かって、捨てた。下の爺の魚捕りの籠にその犬が掛かって、下の爺が(犬を)助けて育てた。その犬が、大きくなって、下の爺と山に行ったら、犬のおかげで金を掘り当てた。それを聞いた上の爺、「初めに、俺の魚捕り籠に掛かったのだから、俺によこせ」と言って、上の爺もその犬を連れて、山に入ったが、犬の教えた処を掘っても、石だらけだった。 怒った上の爺は、石だらけの掘った穴に、犬を殺して埋めてしまった。「可愛そうだったなぁ」と、下の爺は、檪の木で、墓標を建ててやった。するとその木は、見る見る内に大きくなった。 その大きくなった木で、下の爺が臼を作って、餅搗きを姶めたら、ざくざくと小判が出た。それを見た上の爺も、下の爺から臼を借りて、餅搗き始めたが、何も出なかった。腹を立てた上の爺は、臼を焼いてしまった。すると下の爺が、その灰を貰ってきて、空に向かって撒いだら、雁が落ちてきて、雁汁作って食べた。上の爺も真似て、屋根の上に登って、撒いたら、自分の目に入って、屋根から落ちてきた。下にいた上の婆が、「大きな雁だぞ!」と、自分の爺を、棒切れで叩きつけた。 |
7. 狼の恩返し |づもな||戻る| |
ある大百姓の家で、森の先にも田畑がいっぱいあって、何十人もの作男を使っていた。その家のおかみさんが、毎日、森を抜けて、働く人達に、昼飯運びをしていた。 ある時、いつもと変わらず、十人前のお握りを背負って、森の中を通ったら、途中で年老いた一匹のはぐれ狼に、バッタリ合った。驚いたおかみさんに、目を光らした狼が、涎をたらして近寄ってきた。 どうにも、仕様がなくなったおかみさんは、背負籠の中の握り飯を掴むと、狼めがけて、次々と投げつけた。狼がその握り飯に食いついているうちに、急いで畑の方に逃げてきて、助かった。 翌日も、同じ森の中を通ったら、前の日と同じ狼が居た。さぁどうしようかと思ったが、前の日のように、握り飯を投げてやったら、気のせいか、昨日より恐くない目で、旨そうに食って、森の奥へ行った。 それからというもの、毎回、おかみさんがその狼の分の握り飯、余分にこしらえて、食わせたが、何日かしたら、いつもの狼が、いきなりおかみさんの袖を噛んで、ズルズルと森の中へ、引きずり込んだ。 狼の腹の下で、「もうこれまで」と覚悟していたら、前の方の藪の中を、赤い目を光らした狼の群れが、突っ走って行った。いつもの狼も、居なくなっていた。 |
8. 河童相伝 |づもな||戻る| |
北上川のそばの安久戸(水沢の地名)付近に、昔、沼があった。畑仕事をして、昼休みに家に戻ってみると、頻繁に釜の蓋がはずれていて、朝に炊いた飯が、半分以上も無くなっていた。 「誰かが来て食うわけがないし、不思議なことがあるもんだ」というので、その日も皆で、河原の畑に行く振りをして、父だけ残っていて、大黒柱の影に隠れていた。すると間もなく、ピチャピチャと、戸口に来る者がいた。 「よーし、誰なのか、今日こそ捕まえてやる」と、父は大黒柱のくらい、真っ黒い腕をまくって、息を殺していた。すると戸口をスーっと開けて、入ってきたのは河童だった。 見られているとも知らず、その河童は、竈に寄ってきて、釜の蓋をとると、水掻きの付いた手掴みで、ご飯を食い始めた。 「こーのやろ!」と言って、父は河童を羽交い締めにしたら、「許して下さい!」と、頭の皿を質種に置いて、「ちゃんと弁償します」と、一旦帰った。少ししたら、何か、持ってきた。 「この黒い粉、何だ?」と聞いたら、「踏み抜き(足などに釘や、竹などの切り株を刺すこと)の薬です。効きます」と河童が言った。その頃は草鞋ばかりだ。たから、常に踏み傷が、絶えなかった。沼の河童に教えられた薬のおかげで、皆も傷病みせずに肋かった。 |
9. 黄粉 |づもな||戻る| |
奇麗好きの爺と婆が、今朝も掃除をしていた。いつものように手分けして、婆は雑巾掛け、爺は庭を掃いていた。爺は丁寧に、緑の下の方まで、箒を使っていたら、コロコロっと、一粒の豆が出てきた。 奇麗好きな爺だが、物も大事にした。まして食べるものだから、「婆さん、豆を一粒拾ったが、煮ますか、煎りますか」と言ったら、「大きい鍋で煎りなさい」と言われ、一粒の豆を負う大鍋で煎った。 するとなんと一粒の豆が、大鍋一杯になった。驚いた爺と婆は、これじゃいけないと、大臼に入れて、搗いたら、臼から溢れるほどの、黄粉になった。「おい太郎、前の家に行って、大きな粉おろしを借りてこい」と、伜に用事を頼んだ。 この伜は天保銭(穴開きで、間抜け)で、前の家には犬がいるから嫌だ、後ろの家の途中に狐が出るから嫌だと、言うことを聞かなかった。「それじゃ仕方がないな。爺の麻の褌の切れ端で通そう」ということになって、黄粉を作った。 作ったはいいが、上に置けば、鼠に食われるし、下に置けば、猫に舐められるというんで、爺と婆の間に置いて、一つの蒲団で寝た。夜中に、爺がボ〜ンとおならをした。すると、一緒に寝ていた爺と婆が、黄粉餅のように、豆の粉ぐるみになった。 |
10. 取り分 |づもな||戻る| |
三平と平三は、どっちも三男坊で、名前も、逆にすると同じだし、家も近いから、幼少から、親友だった。 二十歳を過ぎたら、どっちも酒が好きで、割り勘で、よく飲んでいた。だが、二、三男坊だから、いつも銭があるわけでもなく、そこで二人はドブロク(密造酒)を造って飲もうとなった。 三平は、米櫃から、米を掠めてきたから、そんなら俺は、酒を造るのに、良い水のある所を知ってるからと、平三は水を持ってきた。 二人で裏山に、瓶を据え付けて、何日かしたら、大変良い、ドブロクができた。(どうして、米と水だけで、ドブロクができるはずがない、と言うでしょう? そこはそれ、話の「種」というものが入っているから) さて、うまくできたドブロク、二人で分けようということになったら、目から鼻へ抜ける(抜目の無い)三平めが。「俺は、水を汲んできて出したから、水の分を貰う。三平は、米を出したから、米の方をやるから」と言って、澄んだ(上質な美味しい)分は、全部持って帰ってしまった。 三平は、酒粕の菓子にもならない、ドブロクの粕を、不精髭にこびり付かせて、「どんな計算なんだ?」と、訳がわからなかった。 |
11. 命の洗濯 |づもな ||戻る| |
わらび座(秋田の劇団)が、アテルイのミュージカルで、今度は、新橋演舞場で、市川染五郎が、アテルイを歌舞伎風にやるという。今年は、何処へ行っても「アテルイ」「アテルイ」の、幟だらけだ。だが、芝居は、見ておくもんだ。 ある時、昔の若者(今は爺)が三人、水沢の、赤提灯のあるあたりを、酔って歩いていた。すると、素人くさい、占い師がいたので、からかってやろうと、手相を見てもらった。すると、その占い師は真顔で、「あなた方は、ここ三日以内に、命を落とすことになる」と語った。 「さあ、午前様になるし、帰ろう」と、三人は別れたが、一人だけ残った男は、「どうせ、死ぬなら、あそこの女将と、別れの盃でも交わそう」と、もう一軒行った。 外の一人は、「そんなら、この世の名残りに、新橋でアテルイの歌舞伎でも見るか」と、翌朝、東京へ行った。二人目の男は、とにかく、相撲が好きで、国技館にでも行って、この世の見収めをしようと、これまた両国へ行った。 占い師の語った三日目に、酒を呑んで、寝通していた男は死んでしまって、東京へ、アテルイの芝居を見に行った男と、相撲を見に行った男は、今でも元気だ。それで昔から、「相撲、芝居の見物は、命の洗濯」と言うのだ。 |
12. 乙女川の鯉 |づもな||戻る| |
浦島太郎に助けられた亀は、恩返しに竜宮城でご馳走したり、鶴を助けた与ひょうだってそうだ。どんな生き物でも、助けられれば、恩は感ずるものだ。 水沢の町の中を流れる「おとめ川」は、今なら「乙女川」と、大変美しい名前だが、昔は「御止川」だった。留守(水沢要害城主)の殿様の城の北側の、つまりお掘りだったわけだ。だから、誰彼があの川に入ると、「曲者!」ということになって、城に忍び込む怪しい奴になる。 ところが、昔はあの川に雑魚(川魚)がたくさんいて、丸々と太った鯉なども、うようよ泳いでいた。ある男が、どうしても食いたくなって、夜中にこっそり川に入って、大きな鯉を一匹捕まえてきた。翌日、隣の若者に、一緒に食べようと誘ったら、その若者が優しい男で、「お前の首も飛ぶし、鯉も可哀想だから」と放してやった。すると、その夜、若者の夢枕に、鯉が出てきて、「七月一日洪水になる」と教えてくれた。 おかげで、乙女川周辺の人達は助かったが、キャサリン、アイオン台風の時は、誰も鯉の夢、見なかったんだ。昭和二十二、二十三年と、二年続けて、それも七月ではなく、どっちも九月だった。両方の台風、水害で死んだ人は、合計五百二十三人、行方不明者は、三百五十四人もいた。 |
13. 小豆粥 |づもな||戻る| |
あまり熱いのを食べると、食堂癌になると言うが、旨いものは、温かい内に食べた方がいい。 昔は、小正月と言って、旧暦一月十五日には、必ず、小豆粥を食べたものだ。「女(め)正月」とも言って、男達が小豆粥の給仕をした。食べた後の椀洗い(後始末)も、男性がやった。 その小豆粥に、切り餅など入れると、さらに旨かった。なにしろ、ハレの食(祝い事や恒例行事などの特別のご馳走)など、年に何度も無かった頃のことだ。 小豆粥を食べる時は、いくら熱くても、絶対に、「フーフー」と吹いて食べてはダメなのだ。熱いからさまそうと、吹いて食べれば、’田植えの日に、風が吹くと言って、とてつもなく怒られたものだ。 田植えに風が吹くと、寒いだけでなく、田が波打って、植えた苗が流されたりして、大変だったのだ。だから、田植えの日に風が吹いたりすると、「○○兄さんの女房は、ホラを吹くだけでなく、小豆粥、吹いて食べたな」などと、からかわれた。 そう言えば、旧正月の七日から、八日にかけて、水沢の東、山内(黒石町)の蘇民祭がある。あの黒石寺の庫裏で、大きな鍔釜二つに、厄年の男が、七日七夜薪を焚いて、沸かした「薬湯(やくとう)」も、吹かずに飲めば、無病息災ということだ。 |
14. 取って投げ |づもな||戻る| |
江戸から来た旅の商人が、宿場まで来ないうちに、日が暮れてしまって、「さて困った。今夜の宿をどうしよう」と、歩いて来たら、都合よく、街道沿いの一軒家に、明かりが灯っていた。 「旅の商人ですが、町まで行かない内に、日が暮れてしまいました。どうか一夜の宿を貸して下さい」と頼んだら、その家の女房が、「夕飯も片付けてしまったが、明日朝早く、ご馳走するから、今夜は取り敢えず、白湯だけでも召し上がって、休んで下さい」と、布団を敷いてくれた。 旅の商人は、あまりにお腹が空いていて、なかなか寝つかれなかったが、屋根の下で、布団にだけでも寝られるから、有り難いと思い、うつらうつらしていた。 ほどよく経った頃、炉端で女房が、夫に語っている声が聞こえてきた。「明日の朝、商人にどうしましょうか? 取って投げにするなら、今のうちに寝せておかなきやならないし、半殺しにするなら、煮ておかなきやならない物もあるし、皆殺しにするなら、あんたの手を借りなきやならないし…」。 翌朝、商人を起こしにいって見たら、床は空っぽで、商売の小間物の荷を置いたまま、居なくなっていた。 「取って投げ、半殺し、皆殺し」と聞いて、びっくりしたんだろう。なーに、(この辺の方言では)取って投げはスイトン、半殺しはオハギ、皆殺しはモチのことだったのに。 |
15. 多良福戴立之丞 |づもな||戻る| |
目の不自由な坊様が、運良く一軒の農家で、一夜の宿にありついた。奥の小さな部屋に案内されて、旅支度を解いていたら、その家の女房がきて、「この通りの貧乏です。あげくに冷害続きで、ろくに米も取れないから、ご馳走も何も無いけど、これから炊事をするから、待ってて下さい」と言った。 いくらか経ったら、厩の方だろうか、餅を搗く音が、聞こえてきた。「俺に、餅をご馳走してくれるんだ」と、餅好きの坊様は、生唾を飲んでいた。 杵の音がしなくなったと思ったら、「いやいや、お待たせました。召し上がれ」と、女房がお膳を置いていった。目の見えない坊様は、「何餅だろう」と、お膳の椀を、手探りで確かめたが、いくら探っても、稗飯と味噌汁と、たくあんの尻尾だけで、どれも冷たいものばかりだった。 翌朝、皆が寝ているうちに、坊様は、台所の小豆餅を探り当てて、戸口に吊るしてあった蓑に、鍋ごとくるんで、逃げようとしたら、「坊様と風は午後から立つ(吹く)と言うのに、なんと早いこと」と、その家の女房に、見つけられた。 「急ぎの用を思い出したから、蓑も借りていきますよ」「あのー坊様、せめて名前だけでも聞かせて…」「はぁ、蓑荷餡餅逃足早之助(みのにあんもちにげあしはやのすけ)、多良福戴立之丞(たらふくいただきたつのじょう)とも申します」と言って、追いつかれないように、走って行ってしまった。 |
16. 山鳩 |づもな||戻る| |
大変ろくでない子が居た。右と言えば左、上と言えば下というぐらい、臍曲がりでもあった。そんな子だから、親の言うことなど聴きもせず成長した。 ところがある時、父が、山仕事に行って、杉の切り出しをしていたら、間の悪い時は間が悪いもので、自分の切った、杉の大木の下敷きになってしまった。 仲間に担がれて、家に連れてこられたが、医者は、首を横に振ったから、例によってろくでない息子は、「医者の振った首、反対だろう」と、すぐ良くなると思っていた。すると、三日も経たない内に、父が危篤になった。 父は死ぬ間際に、「俺が死んだら河原に埋めてくれ」と、遺言した。本当は山に埋めて貰いたかったが、どうせ臍曲がり息子のことだから、川と言えば、山に葬ってくれるだろうと、逆に言った。 五日目にとうとう、父が死んでしまったら、その息子は、父の遺言通りに、河原の隅に葬った。何故かと言うと、息子は父の死んだ姿を見て、すっかり反省して、父に言われた通り、川の辺に埋めた。 すると、雨が降るたび、父の墓が流されはしまいかと、心配で心配で、とうとう、その息子は、山鳩になってしまって、雨が降るたび、父の墓の周りを飛んで、「デデッ(父)ポッポー」と鳴くようになった。 |
17. 股大根 |づもな||戻る| |
食うにも食えない難民達が聞いたら、怒るだろうが、大黒様の評判が良くて、少し焼き餅気味の殿様は、大黒様が餅好きと聞いて、意地悪をした。餅攻めにして、大黒様を、ギャフンと言わせようとした。 「この五升餅を、予の目の前で、箸を休めずにたいらげてみよ」と言った。いくら餅好きの大黒様といえど、殿様の目の前で、五升餅食うのは容易でなかった。 それでもなんとか、五升餅をたいらげて、おじぎをすれば吐くようだったから、褒美の米俵は、後で届けて貰うことにして、城から下がってきた。 「そういえば、母から聞いていたが、たくさん餅を食べた時は、生大根を食べないと、死ぬらしい」と思い出して、大根を探して、城下の外れまで来た。すると、小川で、大根を洗っていた娘をみつけた。 「その大根、一本恵んでくれ」と頼んだら、「あーら、うちのご主人様は、この辺には(二人と)無いケチで、大根一不足りなくても、怒られます。気の毒ですが、勘弁して下さい」と、言った。 ところが、中に一本だけ二股大根があった。「これなら、片方を欠いても一本は一本だから、なんとか欠いてくれ」と言って、大黒様はその大根を食べて、命拾いをした。その日は十二月十日で、大黒様の年越しだった。以来師走十日には、神棚に、二股大根をお供えするようになった。 |
18. 天狗 |づもな||戻る| |
米の出荷も終わり、この秋の疲れをほぐしてこようと、爺は夏油温泉へ湯治に行った。二日目に風呂で、驚くような大男と二人。きりになった。顔を見ても恐いから、湯船の隅で、手拭いをかぶって、目を瞑っていたら、「爺さん、どこから来た?」と、顔に似合わない、やさしい声を掛けられたので、「胆沢の在です」と、蚊の鳴くような返事をした。 「俺は遠野から来たが、胆沢と言えば、米所だな。新米ができただろうし、腹一杯食べてみたいもんだな、爺さん!」 何だかんだと語ってみると、恐いような大男だったが、人の良さそうな若者だと思った爺は、うっかり、「今年は、作柄も良かった」と、誘ってしまった。十日ほど夏油に居て、爺は、家に帰ってきた。 それから何日も経たないうちに、大男が、本気でやって来た。お世辞で誘ったわけでもなかったから、婆に大釜でたくさん、ご飯を炊かせた。すると、五升の飯をペロっとたいらげてしまった。 「ご馳走になった。今、家へ行ってくるから、半時(一寸の間、一時間程)も待っていろ」と、大男は、一寸の間に、一背負いもの香茸、お礼に置いていった。半時で胆沢と遠野、往復するというのだから、あれは、天狗だと噂した。 |
19. 金山沢 |づもな||戻る| |
昔、若柳(胆沢町)の奥の若者が、町へ、みず菜(山菜)を売りにきた。なんとも、いいみず菜だったので、あっと言う間に、売れてしまった。 若者が帰ってから、みず菜を買ったそれぞれの家では、大騒ぎになっていた。みず菜トロロでもしようと、みず菜の根を洗っていたら、なんと、みず菜の根に、ぴかぴかと「砂金」がくっついていた。 暗くなったのもなんのその、皆でその若者を、追いかけた。馬留の傍で、やっと追いついたから、押さえつけて。「このみず菜、どこから採ってきた! 場所を教えろ!」と、町衆達に取り囲まれて、若者は、何のことか分からず、驚いてしまった。よく分からない若者は「今夜は、暗くなったから、明日朝、案内します」 と言うことになって、町衆達が、翌朝行って見たら、こんな山の中に、こんなに広い場所があったんだろうか、というような所があった。 さあ、それからというもの、あちこちで噂を聞き付けて、砂金掘り達が寄ってきて、沢は「金山沢」と言って、欲張り達の家が、千軒も建って、その辺はゴールドラッシュの、町になった。 平泉の秀衡も掘ったとか、その後、キリシタン領主の後藤壽庵の頃が、盛んだったとも言う。 |
20. ウンナンさま |づもな||戻る| |
雲南や、宇南、雨難などという地名や石碑が、胆沢、江刺の辺にたくさんあるが、なんでも「水」と、大変関係が深い。多分、米を作るのとも、繋がりがある。 ある堤に、そこの主のような、鰻がいた。さなぶり(田植後の祝宴)の酒の勢いで、堤の水を田に引いていた家の若者達が、「なぁ、あそこの堤に、大きな鰻が居るのを、昨年夏の、水枯れに見たが、皆でマキ針(置針)掛けて、鰻の蒲焼きでもして、精力をつけよう」ということになった。 別の若者は、「そんなことをして罰が当たるぞ。爺が言うのには、あの鰻は、神様のお使いだそうだ。なんでも片方の目が無いのだとも言うが、気持ちが悪いぞ」と言ったが、なんだかんだと言いながらも、鰻捕りをすることになった。 畳針や、大きな釣針に、大い蚯蚓を付けて、何日もやってみたが、さっぱり鰻は掛からなかった。「これじゃだめだ。田に水がいらなくなったんだし、堤を掻こう」と言うことになった。 年寄達が止めるのも聞かず、若者達が、堤を掻き始めたら、さっきまで太陽が照っていたのに、急に黒雲が出てきて、雷と、握り拳のような雨が、若者達を叩きつけた。 雷神様の石碑も、たくさんあるが、雷が三回落ちると、雲南様になる。雲南様が水をくれて、雷様が実入りをしてくれるから、どちらも農神様なのだろう。 |
21. 鶴 |づもな||戻る| |
昔はこの辺のあちこちにも、鶴が飛んできた。そう言えば、鶴ケ沢や鶴淵、鶴巻、鶴田などという字名も残っている。伊達の殿様は、鶴の肉を、将軍様に献上したそうだが、鶴の卵で作った盃も残ってる。 鶴供養という所にも、腕のいい猟師がいた。獲物の無い日がなかったから、暮らし向きも良くて、いっぱし風をよそおっていた。いつも母親に「女神の化身だから、丹頂の鶴だけは撃ってはいけないよ」と言われていたのに、とうとう或る日、自慢して、一発で丹頂を仕留めた。 すると、家族中が不思議な病にかかり、「ツル、ツル…」とうわごとを言って、医者にも見放されてしまった。気の毒になった近所の人々が、霊媒師に拝んでもらったら、「鶴の崇りだ」と言われて、皆で供養碑を建ててやったら、鉄砲撃ちの家族は、日増しに良くなって、助かった。 鉄砲撃ちは、それからというもの猟をやめて、真面目に田畑を耕して暮らした。話しはこれでおしまいではなかった。その後、鶴供養の碑が、無くなった。朝草刈に来ていた若者が、馬(の両側)に付けた草の荷が、どうしても片側、持ちあがってしまうというので、丁度いい(バランスの)重しにして、その碑を片荷にして持っていってしまった。 今では、鶴も北海道にしか来ないようだが、昔は、前沢の舞鶴の湯のあたりにも、飛んで来たのだろう。 |
22. 蚊攻めの刑 |づもな||戻る| |
米櫃を開けて見れば、明日食う飯も無い程、貧乏な夫婦が居た。働くには働く夫婦だったが、なにしろ「百姓と菜種油は、搾れば搾るほど取れる」という殿様だったから、いくら働いても、追いつかなかった。 山菜や、稗飯などで食い繋いでいたら、庄屋で大掛かりな普請をすることになった。休憩の時、大工の棟梁がふと漏らした言葉を聞いた。「あそこの梁に、太い松を一本使いたいもんだが、何処にもそんな木が、無いしな!」 手伝いに来ていたその夫婦は、その晩から、鋸を持って、ある山へ入った。昼は知らん振りして、庄屋に手伝いに行って、夜になると山に入って、三日三晩かかって、目通り(目の高さの直径)三尺もある松の木を倒し、コロを掛け、十日と三日もかけて、庄屋の庭に運んだ。 「これで三年は食える」と夫婦は思ったが、その松の木は、殿様の山から伐って来たのがバレて、怒った殿様は、夫婦を裸にして、蚊帳の中に入れて、その中に三百三十三万三千匹の「蚊」を放した。とうとうこの夫婦は、蚊に刺されて死んでしまった。 それからと言うもの、殿様の山には一匹の蚊も居なくなった。百姓は生かさず殺さずと言うが、ろくに飯も食ってない体の血を吸う蚊も、苦労したことだろう。 |
23. 蝉の兄弟 |づもな||戻る| |
親達に、早く死なれてしまったが、周囲でも、大変評判の、仲の良い兄弟が居た。親も貧乏だったから、ろくな田畑も無くて、兄弟もなかなか嫁も貰えずにいた。いくら働いても暮らし向きは、楽にならなかった。 そこで兄の方が、出稼ぎでもして、手間賃を稼いでくることにした。出稼ぎに行く朝、弟は、兄の姿が、峠の向こうへ消えて見えなくなるまで、手を振って送った。 仲の良い兄が、出稼ぎに行った日から、弟はなんということもなく淋しく、悲しくて、家の戸を閉めたまま、畑にも出ず、七日も十日も泣いてばかりいた。周囲でも心配して、「どうした」と声を掛けても、弟は戸□に心張棒を掛けて、出てこなかった。 そのうちに、家の中がまるで静かになって、弟の泣く声も、ウンともスンともしなくなった。周囲も心配して、無理に戸をはずして、家の中に入って見たが、誰の姿も無かった。すると峠の方で、二人で泣いてるような声がするからと、皆で行って見たら、二匹の蝉が、松の木に止まって、並んで鳴いていた。 「蝉は七日の寿命」と言うが、七年も土の中に居て、やっと出て、夏に鳴き果てると、僅か十日程で死ぬ。なんと哀れなことよ。 |
24. 酸漿(ほおずき) |づもな||戻る| |
今の子供達は、なんでも、買って貰った玩具でばかり遊んでいる。野原の草や、花などでは、遊ばない。酸漿だって、庭先にある酸漿と、お祭りの時など、珍しい「海酸漿」というのも売っていた。 昔、何処から来て、何処まで行くのか、一人の旅人が、山の中を歩いて来た。いくらもたたないうちに、日が暮れてしまって、「さて、今夜は野宿しかないな」と思って、小さな峠まで来たら、ぼんやり灯が見えて、一軒家を見つけた。婆の独り暮らしだったようだが、宿を頼んだら、快く泊めてくれた。 その旅人が、朝起きて、井戸端で顔を洗っていたら、目の前に赤く熟した酸漿が、ふさふさと生っていた。懐かしいなぁと思って、一つもぎ取り種を出し、□の中に入れて、プリップリッと鳴らしていると、その家の婆が慌てて飛んできて、「あらお客さん! とんでもないことをして、罰が当るよ」と、言った。「どうして?」と聞くと、婆はこう語った。 「あのね、お客さん。お日様は毎日東から出て、夕方には、西へ沈むが、お日様は夜中になると、土の下をもぐって、この酸漿の一つ一つの中に、入るんです。だから、酸漿は赤くなるというわけ。早い話が、酸漿は、お日様の子供達、ということになる。だから、粗末な扱いをしては、駄目なんです」と。 |
25. どっこいしょ団子 |づもな||戻る| |
或る所に、たいそう短気な爺が居た。短気なくせに、物忘れも酷かった。ある時、隣村の従兄弟の所に呼ばれて、大変旨い、団子をご馳走になった。「なんと旨いもんだが、何と言うものだ?」と聞いたら、その家の婆が、「なーに、ただの団子です」と言った。 家に帰ったら、婆に作らせようと、忘れないように「タダノ団子、タダノ団子」と、繰り返しながら、歩いて来た。早く家に帰って、団子を作って貰おうと、近道をして、途中で堰を跨ぐ時、どっこいしょと声掛けをしたら、団子というのを忘れて、「ドッコイショ、ドッコイショ」と言いながら歩いてきた。 家の近くまで来たら、隣の犬が、繋がれてなくて、どういうわけか、爺に、うんと吠えた。すると爺は怒って、この畜生と、大きな声で、追い返した。すると、ドッコイショも忘れて、「コンチクショウ、コンチクショウ」と言って、家に入ってきた。 「なぁ婆や、コンチクショウと言う物をご馳走になってきたが、旨いもんだった。コンチクショウを作って食わせろ!」と言った。婆は何のことか分からないから、ぼーっとしてたら、癪にさわった爺に、金火箸で叩かれて、婆が、「額に、団子みたいな瘤が出た」と、言ったら、爺は、「その団子よ!」と言った。 |
26. 豆腐と蒟蒻 |づもな||戻る| |
豆腐屋というのは、昔から、夜の明けないうちから働くもので、朝飯を仕掛けた母ちゃん達が空鍋を持って、味噌汁の具にするので、出来立ての豆腐や、揚げたての油揚げなど、買いに来たものだ。 豆震屋が、一段落する頃になると、おから(卯の花)だの豆乳を買いに来る人達もいて、立派な家などでは、おからや豆乳は、食ったり飲んだりするんではなく、布袋におからを入れて、柱を磨いたり、豆乳で板の間 (廊下)を拭いたりした。 思いがけなく、その日は、豆腐と蒟蒻が、少しだけ売れ残った。すると真っ昼間、地震で揺れた。間の悪い時は間が悪いもので、台から落ちた豆腐は、粉々になってしまい、救急車で、病院に運ばれた。 豆腐と蒟蒻はいつも隣同士で、仲が良かったから、蒟蒻は豆腐の見舞いに行った。ギプスをした豆腐は、 「お見舞いありがとう。それにしても蒟蒻は、丈夫でなによりだ」と言ったら、「何をおっしゃいます。私なら、毎晩、蒟蒻、今夜食うと言われるので、生きた心地もしません」と語った。 豆腐の見舞いから帰って来て、その話を蒟蒻から聞いた仲間が、「俺も、いつ鳶にさらわれるかわからない」と油揚げが會えば、「俺だって、癌じゃないかと、毎日のように心配してる」と、雁擬きが語れば、「納得だな」と納豆が言った。 |
27. 長い名前 |づもな||戻る| |
人の名前にも、流行り廃りがある。昔の男の子は○吉、○太郎とか、女の子は「子」が無くて、春に生まれればウメで、寅年に生まれるとトラと付けたりしたものだ。そうしたら、今の皇后様が結婚した時は、「みちこ」という名前が流行したし、この頃では駿や愛というのも流行する。 昔話で長い名前と言えば、子供がいくら生まれても早死にするからと、長い名前を付ければ、長生きするのじゃないかと、長い名前を付けた。 「ちょうにんちょうにん長十郎いっけぇ入道わァ入道まんまる入道えっくしょうつくしょうごの神唐の金しょうじょう漆の花が咲いたか咲かぬかまだ咲き申さんどんだ郎」ちゃんが、川で溺れたと、知らせに行くうちに、子供は、流されてしまったという、話もある。 それに似たような話で、大きな家を建てた男が、家に合うようにと、屋敷の名前を付けた。昔は、それなりの家には長者屋敷とか、河原屋敷、坊屋敷などというのがあった。ところが、この男、とんでもない屋敷名を付けた。 「鉈ノ柄サヤ屋敷エントクレヘエマントクエンマホジホレヘエトバトレエ屋敷」が火事になって、皆に助けて貰おうと、屋敷の名前を知らせて、走り回っている内に、丸焼けになってしまった。 次にその男が、家を建てた時の屋敷名は、「燠(おき火と大きいを掛けた)屋敷」とした。 |
28. 御難太郎 |づもな||戻る| |
木に登って遊んでいた太郎の下を、葬式が通った。死花花など、美しかったから、手ばたきをしたら、「この野郎」と、叩かれた。家に帰って、父に説明したら、「そんな時は、拝むものだ」と言われた。 ある時、花嫁行列に出会ったので、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と拝んだら、「縁起が悪い」と立腹された。そんな時は、唄の一つも出すもんだと、父に言われた。その晩、隣の家が火事になって、皆が騒いでいたから、太郎は火事場で、「めでた、めでーたぁなぁ」とやった。すると、焼け柱でゴンと叩かれた。 なんと、気の利かない子だ。そんな時は、桶で、水の一杯もかけてやれと、父にも怒られた。翌日、太郎は町へ用足しに行って、鍛冶屋の前を通ったら、赤々と火が燃えていた。これではいけないと、堰から足洗桶に水を汲んで、ザンブリとかけたら、鍛冶屋の親父に、金鎚で思い切り、頭を叩かれた。 泣きながら帰って来た太郎に、そんな時は、一叩きでも叩いて、手伝うものだと教えた。ある時、道路で喧嘩をしていた奴らがいたので、その連中を、叩きつけたら、反対に叩かれた。 そんな時は、中に割って入って、止めるものだと言われた。山の方へ行った太郎は、牛達が角突きをしていたので、中に割って入ったら、牛の角で突かれて、死んでしまった。 |
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