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国際語エスペラントと岩手県 : 石川尚志(水沢高校15回生、1963年卒)

国際語エスペラントと岩手県

 石川尚志(水沢高校15回生、1963年卒)

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  今から半世紀も前のこと、1961年の5月のある日江刺郡愛宕村の農家に4人の若い男女が集まった。国際語エスペラントを普及する団体、日本エスペラト学会(現在は日本エスペラント協会)の会員たちである。場所を提供した農家の娘高橋恵美子さん、東京医科歯科大学のインターンで当時無歯科医地域だった千厩に短期派遣されていた太田章雄さん、花巻の男性小田島さん、それに水沢在住で水沢高校の二年生だった私の4人なのだが、私を除いてみな二十代の後半だったろう。太田さんが歯科治療の余暇を利用して岩手県南の会員の交流を図ろうと呼びかけて実現したのである。


 国際語エスペラントというのは、1887年にポーランドの眼科医ルドビコ・ザメンホフ博士が提案した言語で、言語が異なる民族間の意思疎通を易しくするために、主に欧州で使われている主要な言語を合理的に勘案して作られた。国際語なら英語(かつてはフランス語)があるじゃないか、と言われるかもしれないが、英語を使うということは英語を母語とする国民に多大の利益を与え不公平であるし、英語は発音も文法も不規則で学びにくい。そこでどこの国の言葉でもない中立的で不規則のない学びやすい言語が求められる。昔から何千という計画(人工)言語が発表されたが現実に使われているのはエスペラントだけである。

 ゼメンホフ エsぺらんと文字

 さて、4人が会ったのは一度きりで、私は63年には大学入学のため上京し一二度帰省のときに高橋さんとお会いしたがその後は多忙にまぎれてご無沙汰してしまった。高橋(のち結婚して五味)さんはその後、内科開業医の佐々木滋先生などと水沢エスペラント会を作り講習会を開いたり東北のエスぺラント運動に貢献された。佐々木先生は、東北大学在学中からエスペラント運動に参加、63年頃から水沢で活動を再開され、66年には高橋さんとともに水沢での第4回東北エスペラント大会開催に尽力されたようである。先生は、気管支拡張症を患っていた私の子供時代の主治医で大変お世話になったのだが、残念なことにエスぺランチストとしての先生に御目にかかることはついになかった。

 私はいま埼玉県に自宅を持ち5年ほど前から母の介護のため東京在住の姉と交代で水沢に来ているのだが、みたところ今の水沢にはエスペラントの痕跡はなさそうだ。県全体を見渡しても盛岡にエスペラント会があるだけだ。だが日本のエスペラント運動の歴史をひもとくと岩手県にゆかりのある輝かしい人物像が現れる。

一番古いところでは、盛岡出身の田鎖綱紀(1854-1938)だろう。彼は日本語速記法の創始者として知られるが、のちにエスペラントや中国語、朝鮮語の速記法も考案した。彼は友人の作家、二葉亭四迷の影響でエスペラントを始めたとされる。二葉亭は日本最初のエスペラント学習書を著わしている。柳田国男の『遠野物語』の語り部となった佐々木喜善は、柳田に刺激されエスペラントを学び、のちに述べる宮沢賢治の勧めで1930年頃花巻で講習会を開催している。岩手県の生んだ最大の国際人、新渡戸稲造は、エスペラントの理解者、後援者であって国際連盟の事務局次長を務めていた1922年の連盟総会に「国際補助語エスペラントを公立学校の科目に編入する」という提案を可決させることに尽力した。

新渡戸の後援者であり、彼をジュネーブに送り込んだ後藤新平も1927年頃と思われるがエスぺラントの普及講演会で講演するほどの支持者であった。彼の娘婿である政治家、鶴見祐輔は大変な英語使いであったが、エスペラントを学んでいる。

 宮沢賢治エスペラント詩

 宮沢賢治は1926年の12月、東京において駐日フィンランド大使で言語学者のラムステットの講演を聞き、講演後ラムステットから、「著述を世界的に広めるならエスペラントによるのが一番」と勧められる。その後エスペラントを学んで翌1927年には羅須地人協会でエスペラントの講義もしている。「エスペラント詩稿」という未発表詩八編を残しているが、学び始めて日が浅いせいかエスペラントは誤りもある。賢治はエスペラント詩人として大成するには時間がなかったが、彼の詩想と世界観にエスペラントの理想が結びついたとき豊饒な文学世界が生まれたかもしれないという思いは強い。

今、釜石線の各駅にエスペラントの愛称がつけられていているのをご存知の方も多いだろう。花巻がĈielarko (チエルアルコ、虹)、土沢 Brila rivero (ブリーラ・リヴェーロ、光る川)、遠野 Folkloro (フォルクローロ、民話)、宮守 Galaksia kajo(ガラクシーア・カーヨ、銀河のプラットホーム)など賢治ワールドを想起させるような愛称である。

 エsぺらんと遠野 エスペラント花巻

 発表から百数十年をへてこの言葉は着実に世界中に根を下しており、世界中でエスペラントを話す人は百万人を超えるといわれる。文学作品の創作や各国語からの翻訳も多くでている。ところが戦後の日本で一時期国語や英語の教科書に載っていたエスペラントやザメンホフの話もなくなり、エスペラントのことを知らない人が多くなっている。戦前は、後藤新平、鶴見祐輔、宮沢賢治などの例に見るように、エスペラントの存在は教育のある人の間では常識であり、好意的に受け止められていた。しかし、こんにちでは理想主義的なエスペラントの主張は、現実主義、功利主義的な英語一辺倒の風潮にかき消されて世間の人の耳にはなかなか届かない。

 たしかに英語は必要だ。特に政治家、海外との取引に携わる人にはもっと英語をやってもらいたい。私自身、外資系企業や日本企業で渉外の仕事を長年やってきて英語で飯を食ってきたと言っていいほどだが、それにも拘わらず、いやそれだからこそ、特定の国の言語を国際語として押し付けることの不合理をいやというほど感じてきた。つまり英米人と英語で仕事をする、議論をするということは相手のホームグランドで戦うということ、英語をマスターするということは、英語の発想法、英語のロジックを受け入れることに他ならないと実感した。

一方で、科学的な根拠に基づかない英語早教育ブームには危惧を覚えざるを得ない。日本語の基礎が出来ていない子供のうちに英語を教えることの弊害は専門家によって指摘されているし、中途半端な英語早教育は英語嫌いを助長しかねない。外国語を教えるにあたって例外のないエスペラントを先に教えてその後から英独仏などの言葉を教えるほうがかえって効率がよいという実証実験の結果がヨーロッパや中国の小学校で報告されているのだが、米国一辺倒、近視眼的な文部官僚やそれに惑わされている親たちの耳には届かない。

  私がエスペラントをやっているのは上記のような理想があるからだが、もっと身近な動機としてエスペラントを使っての海外旅行や国籍や身分にこだわらない交わりに英語では味わえない楽しさ、親しさを味わえることを挙げたい。

 tokyo100 

一昨年は第100回日本エスペラント大会が東京で開かれ、700人あまりの参加者があったし、作年は11月2日、3日と盛岡で東北大会が開かれ73人が参加し、今年の10月には仙台で第102回の日本大会が開かれる。新渡戸稲造や宮沢賢治のような先覚者によって種が蒔かれ育てられてきたエスペラントが再び岩手の地で大きく花開くことを期待したい。

                                                                                                                                   了