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No.76 後藤新平「その時歴史は動いた」 事務局子 2008/06/07(Sat) 09:33 「後藤語録その1」として紹介したことば
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「ヒラメの目をタイの目にするようなことはできない」 「正伝 後藤新平/鶴見祐輔・著」より引用。 「後藤語録その2」として紹介したことば 「午後3時ごろの人間は使わない 満州は午前8時の人間でやる」 「正伝 後藤新平/鶴見祐輔・著」より引用。 後藤が都市研究会の活動で、各地で市民に訴えたことば 「道幅が広くなり、生活がよくなったらそれでよろしいかといえば決してそうではない。 市民の諒解、市民の協力がなくてはなりません。個人の自治的精神が、国家や法律が及ばないところを助けるのです」 後藤新平の講演『都市計画と自治の精神』(都市計画講習録全集 第1巻/都市研究会)より引用要約。 区画整理について市民たちに呼びかけたことば 「我々子孫の幸福を考えるならば 再びこの災いを受けない工夫をしなければなりません。 これは、実に我々市民自身がなさなければならぬ事業です。 決して他人や政府に任せて知らぬふりをしているべきではありません」 当時、東京市長だった永田秀次郎が復興事業に区画整理が必要であることを市民に向けて説いた『区画整理に就て市民諸君に告ぐ』より引用、要約。 エピローグに紹介した後藤の肉声(録音盤)のことば 「まず我が身を修めるというほかはない。我が身を修める自治の力が治国平天下の基礎である。 かねて私のいう自治の三訣(さんけつ)『人のお世話にならぬよう。人のお世話をするように。そして報いを求めぬよう』と少年時代から心がけてこれを実行するのであります」 録音盤『政治の倫理化』『少年団について』より引用。『自治三訣』は後藤がよく用いたモットー。 後藤が死の直前に残したことば 「金を残して死ぬものは下だ 仕事を残して死ぬものは中だ 人を残して死ぬものは上だ」 以上、6月4日放送、NHK「その時歴史は動いた」の番組紹介文より、後藤語録部分を転載。 昔から水沢は「偉人の町」を標榜していることはご存知の通りです。そのわりには郷土の三偉人のことをよく理解している人は少ないのではないかと思います。その意味では今回の放送は後藤の事跡がよくまとめられており、見逃した方も多いと思われますので是非再放送してもらいたいものです。 後藤は、政治家、行政マン、教育者、プランナーなど色々な顔を併せ持つ、近代有数の人物ですが、この中の教育者の側面を少し紹介したいと思います。 ボーイスカウト運動は20世紀初頭、イギリスのベーデン・パウエル卿の提唱により創始されましたが、ほどなく日本に伝わり、国内各地で個々に行われていた運動を統一して、日本ボーイスカウト連盟が創立されて後藤新平が初代総裁に就任(ちなみに2代総裁は斎藤実)しました。 日本のボーイスカウト運動は現在でも後藤の理念が色濃く反映されています。後藤は出張先で倒れるまで、諸事多忙でしたが、子供達との交流を優先していました。そこで繰り返されたのが「自治の三決」です。自助の心、寛恕の心、奉仕の心を説いたのです。子供たちは「ヒゲのおじさん」と慕ったそうです。まるでホおじさんみたいですね。(ホおじさんわかる人、手を上げて)最近の政治家はこの「自治の三決」を座右の銘にしている方が多いようですが、どういう意味かもう一度考え直してもらいたいものです。 しかし「語録2」はどきっとしますね。後藤が満州鉄道初代総裁に就任し、壮大な実験を始めるとき、人材について述べているのですが、午前8時とは年齢ではなく、気概ととらえたいところですが、午後3時の人間に「午前8時たれ」は難しいですね。 放送の最後に、晩年の後藤が、「自治の三決」を語った生テープが紹介されましたが、故郷を出て半世紀以上もたつのに、これがもろ水沢弁なんです。部下たちは聞き取りにくかったでしょうね。逆に耳をそばだてることによってよく身についたのかもしれませんね。 No.75 あなたはなんとプロポーズしましたか 事務局子 2008/05/31(Sat) 13:29 高橋さん最優秀賞 全国プロポーズの言葉コンテスト
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【東京支社】特定非営利活動法人(NPO法人)地域活性化支援センター(本部静岡市)が主催する「2008年全国プロポーズの言葉コンテスト」で、奥州市水沢区の会社員高橋俊さん(35)が妻の愛さん(28)に贈った言葉が最優秀賞に輝いた。受賞作は「途中参加のパパだけど、本当のパパにして下さい」。表彰式は27日、東京・六本木の六本木ヒルズ展望台で行われた。 同コンテストは、昨年に続き2度目の開催。全国から671点が寄せられた。 表彰式では、その中で最も優れた3作品が紹介され、ファッションデザイナー桂由美さんや華道家の假屋崎省吾さん、形成外科医でタレントの西川史子さんらが審査の結果、高橋さん夫妻の応募作が最高賞を射止めた。 高橋さん夫妻は、愛さんの実家がある気仙沼市で知り合った。当時、愛さんは離婚歴があるシングルマザー。プロポーズの言葉は、長女桃香さん(7)を間に川の字で寝ていたときに、俊さんの口をついた。愛さんは「子どもの目線で私たちのことを考えてくれたことに感動した」と、即結婚を決めたという。 愛さんは「私と同じような境遇の女性が、結婚や恋愛を前向きに考えるきっかけになればうれしい」と、会場でふざけ合う俊さんと桃香さんに幸せいっぱいの笑顔を向けた。 (2008/05/28) 以上、岩手日報記事抜粋 文の都水沢からまた受賞者誕生ということで。 最近の統計によると離婚率は37%に達しているそうです。確かにまわりには離婚経験者は珍しくありません。以前地方の支店に勤務していた時、3名の男性社員が定期異動で転勤してきたとこがありました。女子社員は情報が早い。名づけて「バツイチトリオ」。この三人は、Aは前任地で再婚し、Bは新任地で再婚、Cは再婚新婚で着任しましたが、ここで離婚、次の勤務地で再々婚しました。統計数字は実感しませんが。 離婚の増加には色々理由があるのでしょうが、大きなポイントとして女性の社会進出があるようです。手に職のない女性でも、離婚しても自分の口を養う程度の職業にはありつける時代なんですね。生活には便利なものが揃い、男性からみても、家事の依存という意味では結婚が絶対条件でなくなったわけで、離婚したところでうらぶれた悲哀感はただよわない人が多いようです。 ただそれもシングルであればの話です。格差社会が浸透し、年収200万以下の世帯が20%を越している時代、子連れ離婚した母子家庭などは、一挙にワーキングプアに転落してしまうわけです。 その意味では、離婚の増加は社会の不安定要因になっているといえます。 そんな状況でのこのプロポーズの言葉はいいですね。 「途中参加のパパだけど・・・・」こんな素敵なプロポーズの言葉はありませんね。 ただ試練はこれからも続くわけです。子育ては、決して楽しいことばかりではありません。まず思ったように子供は育ってくれないし、反抗したり、口をきいてくれなかったりします。どうしてもゆるせないことも起こるかもすれません。自分の子供だとひっぱたくところも、実の子でないと遠慮してししまうこともあるし、「虐待」という言葉も頭によぎります。 そんな時、このプロポーズの言葉を思い出せば・・・・きれいにまとめてしまったかな。 No.74 大鐘街道の思い出 事務局子 2008/05/24(Sat) 08:48 掲示板に大鐘街道の今昔が紹介されていました。朝自転車や下駄履きの徒歩でカランコロンと登校する風景が懐かしく思い出されます。
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現在の高校生は下駄履きがいないようですが、交通安全の教育的指導でもあったのでしょうか。 事務局子が水高に入学した昭和40年代の後半の丁度今頃(5月下旬)大鐘街道で大変な目にあった?ことがあります。 事務局子は原中に自宅があったため、現在の水沢警察署の前を通り、東北本線、4号線を横切り、坂を上り、大鐘交差点を左折するルートを自転車で通学していました。ある日、いつもと同じように交差点に差し掛かりましたが信号が赤になり止ることになりました。ところが履いていた下駄の歯が両足ともにペダルにはさまり抜けません。足の指も鼻緒から抜けません。真面目な生徒でしたから信号無視なんて考えられません。パニック状態になり信号で止まった自転車のまま左側に倒れてしまいました。交差点の水高側のところは現在は長崎米穀店がありますが、当時は田植えの終わった田んぼでした。 うわあ〜田んぼに転落だあ〜と覚悟したところ、あら不思議、倒れた自転車は土手にとどまり・・・かわりに交差点で隣に止まっていた自転車が、水をたっぷりたたえた田んぼに転落していました。つまりドミノの要領で隣の自転車が田んぼに落ちたんですね。 安心もつかの間、これには真青になりました。落ちていたのは長髪破帽の先輩(あとで3年とわかった)で泥だらけでもがいています。はいあがってきた先輩は「まいねまいね」と言ってゆるしてくれたので、その場であやまってそれっきりだったのですが、あれだけ泥だらけになってどうしたのでしょう。 優しい先輩でしかも男子だったからよかったようなものの、エキセントリックな女子だったらと考えると今でも幸運に感謝しています。いやそこから恋が芽生えて・・・とか、卒業してしまえばなんとでもいえます。 大鐘街道は写真のように、道の両側には建物があり、往時をしのぶのは、水高の松林だけになりました。林の手前の赤い屋根は浅利商店です。部活帰りにここに立ち寄った方は多いでしょう。現在は営業していませんが、手前にあるコンビニが浅利商店なのでしょうか。 余談になりますが、正門からもう少し南に行ったところにパンや飲み物を売っている商店がありますが、そのお店は「しじみ商店」といったらしいです。本当の名前はあるのですが、坂下の「あさり」にかけたしゃれですね。 No.73 再就職適性診断テスト 事務局子 2008/05/17(Sat) 08:18 ■「再就職に失敗する人」のチェックリスト
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1.大企業の役員や幹部をしていた 2.プライドは高い方 3.何事にも妥協しない性格だ 4.(現役時代に比べ)年収が下がるのは避けたい 5.人付き合いや人と話すことが苦手だ 6.人の面倒を見るのは億劫だ 7.パソコンが使えない 8.頑固者と人から言われることがある 9.どちらかといえば、理論派である 10.思ったことはすぐに口にしてしまう 11.年下の者から指図を受けるとムッとしてしまう 12.現役時代の仕事や会社を懐かしく思うことが頻繁にある 13.服装や髪型には無頓着な方だ 14.実際の年齢よりも老けてみられることが多い 15.休日は家にこもることが多い チェック項目が5〜10の人は、再就職には相当な苦労をしいられるでしょう。 11以上の人は、そうとうな努力をしなければ、失敗するのは明らかでしょう 以上、「週刊ダイヤモンド」の記事から 別な記事によると、日本は昔終身雇用といわれていましたが、民間に限っては、大学を卒業して入社した会社で定年を迎える人の比率は10%にみたないそうです。転職、子会社出向、リストラ理由は様々でしょうが。 そんなわけで、中高年になって、別の世界に行くことはむしろ当たり前なのです。 リストを試してみて結果はいかがでしたしょうか。 事務局子の場合、絶対当てはまらないと断言できるのは、4と15程度ですね。「実るほどこうべを垂れる稲穂かな」をモットーにしていますが、周囲からはプライドが高いと思われているかもしれないし、PCについても自信があるのが、打ち込みのスピードだけだし。 子会社や同業他社に移った先輩に会うと、前の会社の人間がいかに優秀で今のところの連中がダメなことを嘆きます。当たっている面もあるでしょうが、その先輩は、再就職挫折トレンドにはまっているといえるでしょう。 もっとも15の項目すべてに該当しない人であれば、起業家として大成功しているでしょうし、そもそも、サラリーマンなんかになっていないでしょうが。 No.72 「プロフ」講習 事務局子 2008/05/15(Thu) 21:46 授業でプロフ擬似体験 水沢高で特別講義
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奥州市の水沢高(伊藤勝校長、生徒839人)は14日、携帯電話を使ってプロフィルサイト(プロフ)の作成・閲覧を疑似体験し、問題点や危険性を探る特別講義を行った。教室内に携帯電話の通信ネットワークを構築。簡単に日々の出来事などを紹介できる半面、いじめや事件に巻き込まれやすいとされるプロフについて正しい情報発信の在り方を学んでいる。 同校が文部科学省から指定を受け、理数系教育に重点を置くSSH(スーパーサイエンスハイスクール)の一環。1年生280人を対象とし、県立総合教育センターの三田正巳研修主事(40)が講師を務める。 同日は2組39人が講義を受けた。教室内で構内情報通信網(LAN)を利用し、特別な機器を使って携帯電話の通信ネットワークを構築した。 生徒は同センターが開発したサイトにアクセスし、プロフを作成。友人のプロフを閲覧し、コメントを書き込むなどした。 同センターの調査によると水沢高の1年生の9割以上が携帯電話を持ち、プロフを利用している人は約12%。2組では、ほぼ全員がパソコンや携帯電話など通信端末が生活に必要だと答えている。 三田主事は、プロフは簡単に作成でき、自分なりの表現で情報を発信できるが、個人情報などが漏れる危険性を指摘。「冷静に考え、正しい判断をしてほしい」と訴えた。 谷口暁彦君は「自分で情報を管理することが大切だとあらためて分かった」、八幡咲紀さんは「便利なものでも、より正しい使い方が必要だと思った」と納得した様子だった。 同センターによると、教室内に携帯電話のネットワークを構築した講義は全国的にも珍しい試みという。特別講義は16日まで1年生全7クラスで実施。伊藤校長は「便利なインターネットの光と影の部分を知ってほしい」と願う。 プロフ 氏名や生年月日、趣味などをインターネット上に公開する自己紹介サイト。携帯電話で簡単に作成でき、中高生らの間で利用が広がっている。氏名はハンドネームを使えるものが多い。手軽さの一方、いじめを誘発するとされるほか、全国的には書き込みをめぐる傷害事件なども発生している。 (2008/ 以上、岩手日報本日付記事 水高で「プロフ」の授業が行われた記事が掲載されていました。 SSH(スーパサイエンスハイスクール)とプロフの関連性については???ですが、まあとにかく先生方は大変ですね。 No.71 いやなものを見せます(写真:注目) 事務局子 2008/05/10(Sat) 16:21 「ホームページの命は鮮度と有益情報にあり」というのは誰でもわかっていることで、実際、前回便利屋さんの活用について紹介したところ一部の首都圏在住OBから賞賛の言葉もいただいています。もっともそれはメールによってですが。ことほど左様にHPへの参加にはハードルが高いもので。
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今回は、社会に出て数十年のOBの方にとっては、悪夢というかトラウマというかほとんどの人が忘れてしまいたい話題を提供します。題して「トラウマの段階点」(写真参照) 現在はないはず(未確認ですがあったら大問題だ)ですので「段階点」についてあらためて説明しましょう。 昔、水高では新年度が始まりしばらくすると、生徒全員に「進路指導資料」(以下「段階点」と呼称します)なるものが配布されます。「段階点」は過年度卒の生徒の、校内、外部模擬試験などの結果が数値化された資料です。2年、3年前期、3年後期と分けてあり、それぞれの模試の結果を偏差値(外部試験)とよくわからない方法(校内模試)で、最高10点、最低1点に区分けします。そしてそれぞれの期の直近5回分の数字を足した数字を出します。つまり最高は10点×5→50点、最低は1点×5→5点の持ち点になります。それを3年後期の高い持ち点の順から全員掲載されているわけです。いっしょに受験大学の合否、入学した大学、浪人生の合否、在校時の段階点。各大学の合格ラインなど種々のデータが盛り込まれています。 3年後期の数字が現在の実力であり、3期分掲載することにより2年、3年前期との比較でトレンドを把握できます。2年時15点→3年後期時35点なんていう極端に伸びている人がいたりしますが、国数英の三教科から国社英の私立文系型に転向した人などにいます。写真当時では、45点以上であれば東大は文1、理3以外であればAランク(80%以上)でした。一方、一番難易度の低い国立大学の合格ボーダーラインは15〜20点あたりにあったのではないでしょうか。入試の世界では、「えっ!あの人が?」というラッキー合格者が出るものですが、段階点を見るとある程度納得できることがあります。たとえば持ち点25点のA君とB子さんがいたとします。A君の内訳は(8.5.4.4.4)B子さんは(5.5.5.5.5)だとすると、A君はたまに40点の持ち点の人と同じレベルの成績を出すことがあるが、B子さんはないということになり、A君は「えっ!あの人が」になるチャンスがあるわけです。3年後期の持ち点が同じく35点のC君とD子さんがいたとします。C君は15→25→35、D子さんは45→40→35というトレンドになっている場合、同じ大学学部を受験して、合否が分かれるとすると、合格はほぼ確実にC君になるはずです。 当時(昭和50年前後)でさえ偏差値が普及していたわけで、段階点は古色蒼然とした存在ともいえたのですが、分析資料としては、結構重宝したものです。 ところが困ることがありました。個人情報がバレバレになってしまうんですね。自分のデータは卒業しているので手に入らないけど、後輩や弟妹は先輩、兄姉の成績がわかってしまうんですね。とにかく1位からビリまで、記名はなくてもわかる人にはわかってしまうのは、非常に恥ずかしいものです。 (50.50.50)のトリブル50の人はほとんどいませんが、3つ足しても20にならない人は毎年結構いました。150点と15点!人間って数値化するとこんなに差が出るものなのかと、厭世感情が沸き起こりますね。 事務局子も応援団リーダーをやっていて、応援歌練習は厳しく指導しましたが、真摯に後輩に接したので、後輩の胸の中にも多少残っていると自負はしております。それが卒業後「段階点」を見て、後輩たちが「○○さんあんな立派なごど言ってで、こんな段階点だったのすかやあ〜」なんて言われては穴があったら入りたいではないですか。 数十年たっての後講釈ですが、当時も今も「センター試験」入試など例外がありますが、大学によって入試問題の出題傾向が極端に違います。一般的には難関大学が問題の難易度が高くなりますが、同程度のレベルと目されている二つの大学で、合格必要点数のボーダーラインが85%と70%と異なることも多々あります。どんな模試も段階点に引き落とすのはちょっと乱暴であることは確かです。 釈迦に説法ですが、現役の受験生は、なんでもかんでも立ち向かうという姿勢よりも、自分の志望する大学の合格している実力段階を想定して、そのためには欠けているものは何かを抽出して、対処することが第一義ではないかと思います。自己の想定最大値と志望大学のボーダーラインに接点がないとわかったら潔く転進することを決断すべきでしょう。 もっともそこまで冷静に対処できるのなら、未来予想図は実現するでしょう。根拠なしで楽観している人にはつけるクスリはないでしょうが。 まあ水高OBにとって、段階点が甘美な思い出の調味料になる人は少ないでしょう。でも終わってしまえば「すべてが懐かしい(c.沖田艦長)」ですかね。 #「段階点」は、水高以外の高校でも利用されていたようです。関東地区の同窓会の役員を長らくされていた日本テレビの「システィーナ事業」の総括プロデューサーのAAさんの兄君のAS先生(故人)が発明者との記憶がありますが、確認しようがないので紹介にとどめます。 No.70 便利屋は関東地区在住同窓生の強い味方 事務局子 2008/05/08(Thu) 22:28 関東地区にお住まいの同窓生の皆さん、実家に残している物で苦労していませんか。とはいっても故郷とのつながりは人それぞれでしょう。次三男であるとか、自分は嫁いだ娘で実家は兄が守っているという方は、本人の悩みはともかく、はたからは気楽な身分に見えます。
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ところが団塊以降の世代は、二人兄弟が基本で一人っ子、三人兄弟は少数派、4人以上はほとんどいない家族構成になっています。そうなると必然的に、関東地区在住ながら、故郷に老親が独居しているとか、家だけ残っているという方も多くなっていると察します。それが咽喉にトゲがささったようでいづいんですね。 かくいう事務局子も老親独居パターンで、今回の帰省のミッションは、あと片付けでした。物置はガラクタだらけ、亡父の日曜大工の残骸や、家庭菜園の道具が家の裏に放置されている。これを片付けてくれというのが老母の要望なのですが・・・ しかし、この要望に応えるのはかなり難しい。まず竿だけとか土石のたぐいは粗大ゴミに出しにくい、というか、粗大ゴミ収集日には水沢にいない。これには困りました。 そんなところで目に入ったのが胆江日日新聞の広告でした。「えぐね・家周り片付けセンター」という広告です。「えぐね」とはこの地方の屋敷林の方言で、要は家のまわりにあるガラクタなどを処分しますよ、という便利屋さんの案内です。試しに見積もりを頼んだら2トントラック一杯くらいの量のガラクタ・土石を解体、処分してくれる料金が15000円。土石抜きなら10000円でした。即依頼して帰京したわけですが、老母から、すっきりしたという連絡がありました。 特定の業者の宣伝になるので、これ以上は申し上げませんが、便利屋って便利です。水まわりのトラブル処理の料金がCMによると5〜8000円、これを考えると便利屋さんはかなりお得です。なによりも時間が安価で買えるということは、ふるさとを離れて暮らしている身にとっては一種のライフラインではないかと納得した次第で、今回の出来事を紹介しました。 #:写真は記事とは関係ありません。水沢の町並みとのコントラストとして、新宿駅東口の景色をアップしました。 No.69 帰ってきました 事務局子 2008/05/06(Tue) 22:43 黄金週間後半を利用して水沢に帰省してきました。
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「祭りのあとのさびしさは」ということで連休しもかかわらず、市内は閑散でした。「アルバム」に水高と水沢市内の写真をアップしています。お時間のある方はご覧ください。 写真は水高の弓道場です。緑と白亜の校舎のコラボレートはなかなかのものです。高校は山口副校長や、教育に関していくつも著書のあるO先生、事務長は未確認ですが、水高OBのM氏のようです。 OBが集結したこの機会になんとか同窓会も活性化できたらと思います。 No.68 昔の火防祭:商店編 事務局子 2008/04/29(Tue) 06:02 本日は日高火防祭です。昨年、十数年ぶりに見ましたが、この日ばかりは、シャッター街も賑わいを取り戻します。メインは、各町内の囃子屋台ですが、この祭りのもう一人の主役は二十五歳と四十二歳の厄年連です。二十五歳はともかく、四十二歳の方は、旧町内の出身者は、中学単位で7.8割参加します。地元に残っている比率を考えればいかに重要なイベントかわかります。
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いい年をした中年が、よさこいソーランみたいなコスチュームで町内を練り歩くんですから、これでは厄も退散するのではないでしょうか。 あまり紹介されていませんので、事務局子の小学低学年だった昭和40年前後の横町の商店の「おひたがさん」の一日を記しておきたいと思います。 事務局子は勤め人の家庭でしたので、祭りだからといって特別なことはありませんでしたが、横町のM商店とは懇意にしていましたので、当日は朝から店につめてお手伝いをしていました。女性軍は料理づくりに忙しく、男性軍は、祭りの仕切りで朝から不在でした。では何をお手伝いしたかというと、ご祝儀の袋つめでした。板垣退助の百円札おポチ袋に入れ、ちり紙で10円玉のおひねりをつくります。おひねりは10円、20円、30円の三種類でざるいっぱいになりました。 それで準備万端、囃子屋台の通過をいまやおそしと待つのですが、それとは別に、お客様が朝から次々と訪れます。M商店は、生鮮でない食料品の卸をしていたので、近郷の商店との取引も多くその関係者だったのでしょう。当時は、祭りは本来の旧暦1月22日に合わせて、2月と3月の間を移動していました。とにかく今よりも寒いわけで、お酒が欠かせません。客が来ると茶碗の燗酒でまず一杯、そこで出てくるのがご祝儀です。来る人来る人にポチ袋を渡していきます。 そうこうしているうちに、今と同じように厄年連がやってきます。今みたいな整然とした踊りではないので、知り合いの「わげすたづ」(若い連中)が飛び込んできてここでも茶碗酒、ご祝儀です。 ここまでは子供の出番はありません。事務局子の役割は、門付けのおひねり渡し係りでした。今考えると、どこからやってくるのか門付けの博覧会でした。獅子舞(大神楽)、三河万歳、春駒、亀の四肢にひもをゆわえてゆらせながら踊る芸・・・・5.6歳の幼児の集団が来ましたね。店のお母さんが、10円、20円、30円とそれぞれ判断し、事務局子が渡します。店のあととりの子が幼稚園児くらいで小さかったので、代理だったのでしょう。当時、とつけものや(駄菓子屋)の購買単価は5円程度でしたので、10円でも今とは価値が違います。30軒まわれば300円ですからいい小遣いになります。今でいう結構なアルバイトですから、母親に「自分もやりたい」と言ったら「そんなほいどみでなごどしてだめだ」としかられました。「ほいど」とは乞食のことですが、大人になって調べたら、門付けってそういうことなんですね。 祭りの日の商店はとにかく忙しい。次々と来る客に酒をふるまい、ご祝儀を渡し、門付けをあしらい、とてもゆっくりと祭りを見物する暇なんてないわけで。 大人の男たちは、「相い打ち」で祭りがひけたあとも、なんだかんだで家には帰らず、そのあとのことは小学生にはわからない世界でした。 事務局子にとっての日高火防祭は、囃子屋台見物ではなく、門付係りでした。今網野善彦先生の著書をよく読むのも幼児体験に根ざしているからかもしれません。 その後、小学高学年になると同級生の女の子たちが三味線で屋台に参加したりして、女の子の化けぶりに寒気を覚えたりしているうちに、「火防祭なんて」という中学高校時代を過ぎ、四十二歳の厄年で、水沢に戻るまで、祭りとは無縁でした。 見物という観点では、昨年が初めてではなかったでしょうか。 どなたか今日の祭りをレポートしてくだされば有難いのですが。 #写真は昨年の火防祭の川口町組の囃子屋台です。男の子がいますね。どう考えても川口町の人口(2〜300人)では屋台は組成できないはずなんですが。 No.67 絶滅種 『筆記体』 事務局子 2008/04/27(Sun) 12:47 昭和40年以前に生まれたOBの皆さん、驚いてください。
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『今の子供は英語を書くとき筆記体を使わない』 事務局子の記憶では小学校3年でローマ字が出てきて、中学に入学した時に、音楽の五線譜のようなノートを使用し始めますが、ほどなく普通の大学ノートに移行して、活字体を使わなくなり、高校入試、大学入試は筆記体を使用しています。筆記体をどこで覚えたかは記憶にありませんが、日本語が金釘流でコンプレックスがあった事務局子は、我が流麗な筆記体を眺めて悦にいったものでした。 先生も中学入学当初では板書は活字体でしたが、すぐ筆記体になりました。 大学生の息子に訊くと、筆記体自体は学校で習わず、級友も使用方法はまちまちなようです。 欧米も、昔からタイプライターが常識でしたから、手書きは活字体が主流とのことなのですが、本当なのでしょうか。 入試の解答の手書きを活字体で書くとバカみたいに見えるのは私だけでしょうか。 話はかわりますが、レストランで洋食を食べる時、ご飯をフォークで食べる場合の所作です。 『フォークの背にご飯を乗せるのは日本人だけだ』 これは本当なのでしょうか。ナイフ、フォークを持ったままご飯を食べようとすると、フォークの背にご飯を乗せると、姿勢は普通になります。曲芸かどうかは別にして。フォークですくおうとすると、右手に持ち替えなければいけません。フォークの背にご飯を乗せるのは、初めて見るとアクロバットのように感じますが、実は簡単ですぐ慣れます。 私はフォーク背派ですが、これがマナー違反であればあらためなくてはいけません。正しいのはどちらなのでしょうか。 |前の10件| |後の10件| |