輝く同窓生たち 第6回ゲスト CERNで素粒子研究の最先端を担う
高エネルギー加速器研究機構教授 佐々木修氏
- 2016/07/11 Yamaguchi
「輝く同窓生たち」
第6回ゲスト
CERNで素粒子研究の最先端を担う
高エネルギー加速器研究機構
素粒子原子核研究所 教授
理学博士 佐々木 修氏
日本の素粒子研究を支える第一人者のひとり。奥州市江刺区出身。1975年水沢高を卒業後、東北大、同大大学院で原子核物理を学んだ。1985年に高エネルギー加速器研究機構(KEK)の前身、高エネルギー物理学研究所入り。ニュートリノ実験で有名な「スーパーカミオカンデ」に携わった経験もある。
ジュネーブの欧州合同原子核研究所(CERN)で、物質の 最小単位である素粒子を調べる「アトラス検出器」の担当者として活躍。同検出器は2012年夏、CERNが発表した「ヒッグス粒子とみられる新粒子発見」 との画期的成果に貢献したことで有名。
岩手県や奥州市が誘致を目指す国際リニアコライダー(ILC)についても「物理学者主体で選ばれたことを評価している。実現すれば千人規模の大研究所になるわけで、hospitalityの精神で住環境などの整備が進んでいけばよいと考えている」 と計画実現に期待を寄せている。
所属 :大学共同利用機関法人高エネルギー加速器研究機構 / 素粒子原子核研究所 / 教授
研究課題の研究分野 :素粒子・原子核・宇宙線・宇宙物理 核・宇宙線・素粒子 先端加速器LHCが切り拓くテラスケールの素粒子物理学~真空と時空への新たな挑戦 素粒子・核・宇宙線 先端加速器LHCが切り拓くテラスケールの素粒子物理学~真空と時空への新たな挑戦
学歴
1975年3月 岩手県立水沢高等学校卒業
1975年4月 東北大学理学部物理系入学
1979年3月 同上 物理学科卒業
1979年4月 東北大学大学院理学研究科原子核理学専攻入学
1981年3月 同上 修士課程修了
1984年3月 同上 博士課程修了 博士号取得
職歴
1984年4月 日本学術振興会 奨励研究員
1985年4月 ドイツ マックス・プランク研究所 研究員(ポスドク)
1985年9月 高エネルギー物理学研究所 物理部 助手
1997年4月 高エネルギー加速器研究機構(改組、改名)
素粒子原子核研究所 助手
2000年2月 高エネルギー加速器研究機構
素粒子原子核研究所 助教授
2010年4月 高エネルギー加速器研究機構
素粒子原子核研究所 教授
佐々木修氏インタビュー
Q(山口光会長):
水沢高校から東北大学、同大学院で原子物理学を学ばれ、1985年に高エネルギー加速器研究機構(KEK)の前身、高エネルギー物理学研究所に入られました。水高時代から原子物理学を志していたのでしょうか、高校から大学時代の思い出や研究生活に入った動機などをお知らせください。
A(佐々木修氏):
私は理数科で40人のクラス、3年間一緒でした。周りを見ると医学部志望の人がクラスの中に10人以上もいる事が分かりました。(実際には5名が医者になっています) 私も中学の時は「脳外科医」になりたいと思ったこともありました。「天の邪鬼」的な気持ちと、人とは違うより基礎的な事をやりたいと言う気持ちがだんだん強くなってきたのを覚えています。
高校2年から物理学への世界に関心
高校2年の時に(たぶん)、江崎玲於奈さんがノーベル物理学賞受賞というニュースを聞き、物理学への思いが増していきました。寺田寅彦の随筆を読み、物理学者の物の見方、観測とその考察の進め方など新鮮な物を感じました。「観測される不思議なもの」(時には、普通は不思議とも思われない物)に、論理だった説明を加える、その説明のためには時には「新たな粒子」の存在を仮定し、論理立った、そして秩序立った仮定をおこなう。そのような物理学の世界に関心を抱くようになりました。
私が大学に入学した昭和50年は、学生運動最末期の時代でした。ストとか学生による教室の占拠などもあり、大学1年の冬休み以後は1週間ぐらいしか授業が行われず、そのまま機動隊の学内導入下で期末試験が行われました。留年率もかなり高かったと思います。
大学院への進学は当初から考えていました。東北大学は、天文、地球物理、物性・固体物理、原子核、素粒子物理と幅広く豊富な講座があります。素粒子実験の講座は、ほとんどの先生が海外に出張していたりで講義も休講が多かったです(呼びに行くといないなど)。今では決して許される状況では無かったと思いますが、このような状況の中で原子核実験の講座に進学し博士号を取得しました。
幸いにして、高エネルギー物理学研究所で建設されていたトリスタン計画(素粒子実験)の助手として就職することができ、現在に至っています。
スーパー・カミオカンデ実験に参加
Q:ニュートリノ実験で有名な「スーパーカミオカンデ」に携わった経験もあると伺っておりますが。
A:(佐々木修氏)
1992年から1998年にかけて、スーパー・カミオカンデ実験に参加しました。測定器(PMT:光電子増倍管11200本)からの信号の時間情報と光量情報のデータ収集を行うシステム構築を担当しました。
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超新星爆発が「近くの星」で起こった場合は、一時的に大量のニュートリノが飛来することが予想されます。このようなイベントにも対応出来るようなコントロールモジュールの開発も行いました。建設期でしたので、鉱山内での肉体労働(7日間のシフトが2ヶ月に1回ぐらい)にも参加。20インチPMTは、浜松フォトニクスで生産されるのですが、月産200本ぐらい。インストールまで保存しておくスペースがないので、毎月のように神岡に納品さます。(貸倉庫を借りるお金がありませんでした)それを鉱山内の旧坑道に棚を作って保存しましたが、これらの作業は我々物理屋が行いました。(大きな真空管構造なので、破損の際の怪我などが心配なため、原則として学生にはやらせなかったわけです。)
直径40m高さ40m円筒形の水タンクが鉱山内に出来た後は、測定器PMT11,200本のインストール作業。一週間の仕事(肉体労働)を終えてつくばに帰ると頭の中が「空っぽ」になっていました。実験開始後の実験シフトは他の実験と比べ楽です。ただし、一週間神岡に缶詰。書き物などの内職仕事がはかどりました。(アトラス測定器のTDR: Technical Design Report の執筆は神岡でかなりやりました) 日中は鉱山内コントロールルームで一人でシフト、夜は、たまたま戸塚洋二先生(当時 宇宙線研究所所長)がいらっしゃっている時などは夜の晩酌をともにさせていただきました。
アトラス実験の建設に専念するため1988年末でやめました。辞めることを戸塚先生に伝えたら大変怒られたことが良い思い出になっています。
CERNでのLHC加速器による研究
Q: またジュネーブの欧州合同原子核研究所(CERN)に長期間出向され、物質の 最小単位である素粒子を調べる「アトラス検出器」の担当者として活躍されました。世界中から最先端の研究に携わる学者や研究者が集うCERNでの研究やお仕事はどのようなものでしたか?
スイスやフランスでの研究生活や思いで、当時の苦労話なども含めて教えてください。
A:(佐々木修氏)
1994年から現在にいたるまで、CERNでのLHC加速器による研究に携わってきました。LHC加速器を使ったアトラス実験には、当初から参加しております。幸いにして、1995年に日本政府はLHC加速器建設に協力することを宣言し(同年6月23日のCERN理事会で与謝野馨文部大臣(当時))、正式なプロジェクトとしてスタートを切ることが出来ました。CERN非加盟国では日本が建設協力の先陣をきり、その後米国等の協力表明が続き、LHC計画が全世界的規模のプロジェクトになりました。私は、日本が担当した測定器の1つであるミューオン測定器を担当しました。測定器本体の1/3は、日本で製造されました。また、この測定器用のトリガー・読み出し回路のほとんど全てを日本が担当し、その代表が私でした。2005年ぐらいまでは、アトラス実験の会議等でCERNを往復しておりましたが、仕事の中心は日本で、測定器用エレクトロニクスの開発、製造、検査を行いました。
(2016.6 アトラスコントロールルームでの写真)
2005年ぐらいからは、CERNでの測定器のインストール作業が本格化し、日本での製造に目処がついた2006年春からはCERNに隣接しているSt. Genis Pouilly(フランス)という町にアパートを借りて単身赴任生活を始め、現在に至っております。11年目に入りました。
(2005.9 エレクトロニクス系試験のため共同研究者(イスラエル)来日。我が家でのBBQパーティー。)
測定器本体の組み立て作業は、イスラエル、パキスタンからの人たちと、イスラエル、日本及びCERNの物理屋とエンジニアが行いました。測定器用エレクトロニクスのインストールとその検査作業は日本人(物理屋、エンジニア及び大学院生)で行いました。勿論、データ収集システムのソフトウエア開発なども全てです。2008年秋のLHC加速器の最初のビームに何とか間に合わせることが出来ました
(2016年6月LHC加速器のtechinical stop 時に故障エレクトロニクス交換の為にアトラス測定器cavernに入構時の写真。安全靴、ヘルメット、線量計、高所作業用ハーネス着用。)
最初のビームは超伝導電磁石の超伝導材の接合不良による大規模なヘリューム漏れ事故により1週間あまりで中止となってしまいましたが、その対処のため約2年の研究実験が休止となりました。この間に、われわれ実験サイドとしては、宇宙線などを用いて測定器の調整、ソフトウエアの開発を行いました。我々の担当した測定器のみでも、100カ所以上のケーブル接続ミスを発見しました。不幸中の幸いでしょうか、コミッショニングに充分に時間を割くことが出来ました。
(2007.3 測定器インストール・検査 現場 (CERN))
新粒子「ヒツグズ粒子」を発見
実験が再開して程なく新粒子と思われる兆候が観測され、後に「ヒッグス粒子の発見」として発表することが出来ました。2014年の休止期間中には、加速器・測定器の改良作業が行われ、2015年から2018年は実験が継続する予定です。2019年から約2年間の休止がありますが、この間にLHC加速器及び各測定器の大幅な改良が行われる予定です(Phase-1 Upgradeと呼ばれています)。
また、2024-2026年にも更なる加速器の増強と測定器の大幅な入れ替えが計画されております(Phase-2 Upgrade)。Phase-1 Upgradeを見とどけ、Phae-2 Upgradeに道筋を付けて退職出来ればと思っています。
アトラス実験には数千人の物理学者、学生やエンジニアが関わっている訳ですが、実際の測定器の保守・運転・開発に関わっている(関われる)人の数はかなり限られた物に成ります。学生は自身の博士論文もありどうしても物理解析に偏る事になります。ある意味確立したツール・手法を用いてのデータ解析に終始することになりかねないのが、大規模実験に従事する学生の傾向です。広い視野・知識を身につけた学生を育てて行く必要を痛感しています。
幸いにしてかなり早い段階でヒッグス粒子を発見することが出来ました。しかし、これはLHC 実験の始まりでしかありません。2018年迄の実験RUN2の期間に新粒子・新現象の兆候なりともつかみたいと思っています。それが、ILC実験の想定エネルギー範囲であれば、ILC計画推進の追い風になるものと考えています。
物理学者主体でのILC建設立地候補地選定を評価
Q:岩手県や奥州市が誘致を目指す国際リニアコライダー(ILC)は宇宙誕生の秘密を探る素粒子物理の国際研究センターであり、その建設に期待が集まっていますが、北上山地にILCが建設される意義と、その果たす役割、どのような課題があるとお考えですか?
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A:(佐々木修氏)
私が参加しているLHC・アトラス実験とILC計画の目指す物理は同じです。少し乱暴な言い方をすれば、ブルドーザーで広範囲に渡って探索するのがLHC で、スコップで丹念に探索する、詳細を調べるのがILCだと思います。相互補完の関係にあると思います。ILCは名前の通り直線加速器からの電子、陽電子を正面衝突させるもので、高度な加速器技術を必要とし、立地条件としても安定な地盤を必要とします。物理学者主体で建設立地候補地を科学的に選定したことを私は大いに評価しています。
CERNは60年以上の歴史を有する世界最大の研究所であり、ジュネーブという街の国際性は言うまでもありません。ジュネーブ・CERNと比較してもあまりにも無意味です。物理学者はその求める物があれば世界中どこにでも行きます。神岡でもアンデスでも南極でも。
勿論、千人規模の大研究所になるわけですからソフト面での環境整備は必要になってくるとは思いますが。私は、地元で生まれ育ったせいか特別な課題があるは思っていません。オリンピック誘致で有名になった言葉をお借りすれば、hospitality(おもてなし)。(この言葉は、昔奥州市から頼まれた「ビデオメッセージ」で私が使ったのですが、その後有名な女子アナがオリンピック誘致のスピーチで使っていました。負けました。)その精神で住環境などの整備が徐々に進んでいけば良いのではないかと思います。
自由な学園で、仲良しの理数科クラス
Q: 郷里、水沢が育んだものとはどんなものですか?水沢高校在学当時、影響力を受けた先生はどんな人たちですか?思い出に残る先生がいらっしゃいますか?またその当時の水高の雰囲気はどんなものだったのでしょうか?
A:(佐々木修氏)
「郷里、水沢が育んだもの」― 正直に言って、あまり考えこと、感じたことはありません。勿論、岩手・奥州市で生まれたことを誇りに思っていますし、同僚に郷土自慢もしますが。スマートに仕事が出来なくても愚直に頑張ってこられたとこですかね?「コミックいわて」なども読んでいます(以前、達増知事がCERNを訪問した際に土産で置いていったのがきっかけで)。
前述しましたが、私は理数科だったので40人のクラスが3年間一緒でした。そういう意味で非常に「仲良し」なクラスだったと思います(少なくとも私はそう思います)。昨年、卒業以来のクラス会がありました。18名参加しました。下の写真がそのときのものです。
(2015年9月 クラス会(花巻)の写真です。前列左が私です。)
残念ながら40人中2名が亡くなっております。3年の時の担任だった鈴木登巳夫先生(晩年は奥様の「阿部」の姓でした。2年間物理を教わりました)も2年前にお亡くなりになられたそうです。クラス会では、亡くなられた方々への黙祷を行いました。東京近郊に住んでいる人が多い事もあり、ここ数年は年に数回のペースで会って宴会を行っています。高校時代の友人は勿論、今でも友人で、お互いの事がよく分かっておりかけがいのない存在です。最近、60才に手が届き昔よりも「心の余裕」が出来てきたせいか、お互いに「仕事」に無関係なせいでしょうか。
「自由な学園」という印象を私は持っています。クラスメートと結構「バカ」もやりました。私は、授業をサボって早退、遅刻を結構繰り返していましたが、鈴木先生からあまりとやかく言われた覚えがありません。家で寝ていたら、鈴木先生が突然自宅の自室の窓を開けて「今日は休みじゃないぞ」と来たことがありましたが。「これから行きます」程度の返事で許してもらいました。田中幸四郎先生には1年生の時の担任で3年間数学を教わりました。
修学旅行に行く前には「見つかるようにタバコ・酒などをやられては困る」と事前に注意を受けました。授業中に授業とは別の勉強をしていても注意をされたこともありませんでしたし、時にはその質問にまで答えてくれました。両先生ともに、学生の「自己責任」という意味で非常に寛容にご指導いただいたものと思います。このような「指導・教育」が一般的に通用するとは思いませんが。
「模倣を戒め創造を最もとす」
Q:最後にサイエンスを目指す、水高の後輩の高校生たちに最も伝えたいことは何ですか?
A:(佐々木修氏)
私のような者がいえる事ではないのですが。我が家には、緯度観測所(現 国立天文台水沢VLBI観測所)初代所長 木村榮先生の書「戒模擬最創造」が在ります(私の曾祖父が先生から頂いた物らしく「寄贈佐々木氏」の為書がついている。「模倣を戒め創造を最もとす」です。同じ物が、木村榮記念館に在ります。
http://www.miz.nao.ac.jp/kimura/
高校時代放課後よく緯度観測所に行きました。芝生で野球をしたりクローバーの芝生に寝転がったり(当時は自由に出入り出来ました)。
世の中には、そして自然界には不思議な事がたくさんあります。最初の一歩は文献学、昔は図書館、今はGoogle 検索ですね。とことん調べる。ここまではいわば知識、時には模倣。「理解して正しく模倣する」事も重要です。でも、その次のステップが創造です。こうありたいなと私自身思っています。
(了)