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No.1711 水沢高校サッカー部最悪 あき 2016/05/28(Sat) 22:38 彼らはどんなホテルでのマナーがなってない。
引率の先生は何で注意しないんだ。 浴場の入口にスリッパは散らかり放題 水を飲むところ、皆が出入りするところ、 数人の生徒で塞ぎ、他の人の迷惑を気にしない、 家庭の躾が大だが、学校の教育も甘いのでは。 スポーツの強い学校、クラブは、やはりしっかりしている。 ある程度の規律が守れないクラブは、やっぱりそれなりだ。 礼儀、マナーを教えられない大人が水沢には多いのか。 No.1710 無題 卒業生 2016/05/27(Fri) 00:36 とりあえずその日に合わせて帰省したいと思いますのでどなたかご存じの方よろしくお願い致します!
No.1706 サイバーに復活している”應援團” 近郊シニア 2016/05/20(Fri) 22:32 以前、水高応援団についてのサイトがあり、一時閉鎖され、また再開されている。
個人的 Unofficial Page だそうですが、資料的なページになりそうでもあり、高校時代のときを感じるOB・OGもいるだろうと、下にリンク先を紹介します。 http://www.bankara.net/ No.1704 アテルイ伝説について 元事務局子2 2016/05/19(Thu) 21:02 後付けニュースになってしまいましたが、胆江日日新聞社の創刊70周年を記念する式典の記事にアテルイを讃える活動が大きく取り上げられていました。
活動の推進者に表彰状が贈られていましたが、残念ながら水高OBの名前はありませんね。 今を遡る事千二百数十年前の奈良時代末期〜平安時代初期に掛けて胆江地方いや北東北を大和勢力の言いなりにさせるまいと奮闘した勢力が居り、その実態も明らかになっています。 最も大きな残念な事の一つにアテルイが何処に居たかの伝承が見当たらない点です。競馬場の付近を指す「跡呂井」だと推量する人は多いのですが何せ証拠が無い。 言い伝えの在るモレの存在(出身地は生母のモタイ)に依って辛うじて実在した事の証明になっているようです。 続日本紀には大墓公阿弖流為と記されているので、恐らく南都田にある角塚古墳に葬られている人の子孫なのでしょう。 最後の激戦の言伝えは江刺に残っていますが、アテルイの名前は出て来ません。人首丸と大岳丸です。人首丸は種山高原の大森山側に墓標があり、大岳丸は墓の位置が不明ですが逃亡先の鬼首が最後の地ではという見方があります。 関連する情報がありましたらお知らせ願います。 http://www.tankonews.jp/modules/bulletin/index.php?page=article&storyid=4418 No.1701 卒業50年同期同窓会の開催について 小澤彰 2016/05/03(Tue) 16:16 第19回卒業(昭和42年3月卒)学年事務局の小澤彰です(1組)
○私が事務局になったいきさつ 5年前に全体の同窓会に参加。長野耕定学年会長が全体の同窓会長に なった時でした。関東より同級生が2名参加しましたが、地元からは 私だけ。関東の同級生から「学年から全体の会長が出ていながら、こ の参加者は寂しいのではないか」と言われ、その通りだと。 私はクラスの幹事でしたが、その当時の事務局は空席で、翌年から学 年幹事に呼びかけ、10人前後は参加しています。全体の参加者が 75名ほどですから、参加の最も多い学年になっています。 平成18年の学年の同窓会を開催していて、28年に卒業50年の同 期同窓会を行うことになり、何かと連絡を取っていた、私が事務局に なりました。 ○卒業50年同期同窓会について 何度か地元の幹事会を行い、下記のように大筋の内容を決定しており ます。 1 期 日 平成28年11月25日(金)午後より(時間未定) 2 会 場 水沢グランドホテル 3 会 費 1万円 4 内容について 5月以降の幹事会で決定 5 同期の名簿について 現在、クラスごとに確認中ですが、確認できなかった方の氏名を この欄に掲載しますので、よろしくお願いします。 6 学年事務局 小澤彰(1組) 023−1131奥州市江刺区愛宕字馬場先188 携帯 080−1807−5790 メール gobangai18848@pon.waiwai-net.ne.jp お世話になっております。
参加者名簿の作成は大変かと思いますが、宜しく願い致します。 No.1702 総会の報告など 関東地区の同窓生 2016/05/08(Sun) 10:11 関東地区の2年に一度の総会・交流会になかなか参加できないので、会費だけは2年に一度送金しています。
今の時期の年度替わりか総会後のどちらかのタイミングで総会報告や決算報告があると同窓会が身近に感じます。紙面の郵送では経費も掛かるでしょうから、このホームページに掲載されても十分におもいます。 総会の写真集や先輩の特別講演の要約は興味を持って拝見してます。 No.1678 逍遥歌の謎解き 仙台ベガ 2015/11/24(Tue) 21:39 逍遥歌の謎解き(1)
今年の水高同窓会仙台支部の会合で話題になった逍遥歌。作詞家はどんな人なのか、歌の誕生の背景はどうだったのか。昭和20年代と私の時代(40年代)との感じ方の違いがあることなど、謎が多い歌でした。11月1日の交流会での関係者からの証言は、逍遥歌の歴史を掘り起こすきっかけになりました。このホームページが謎解きの場になることを期待して連載します。同窓会に関わる方々、この交流掲示板や下記のアドレスに逍遥歌の思い出、エピソードなどをお寄せ下さるようお願いします。まずは、逍遥歌の詩から紹介いたします。 逍遥歌(逝く春) 作詩 阿部庄一郎 一 胸に描きし甘き夢 日々に破れて傷つける 重たき心抱きつつ 暮れゆく空に駒ケ峰を 仰ぎて独りそぞろげば あわれ悲し逝く春の ひとひら散らし梨の花 二 胸に描きし清き夢 日々に破れて濁りたる つめたき心抱きつつ 暮れゆく空に北上を 望みて独りさすらえば あわれ悲し逝く春の ほのかに浮かぶ三日の月 三 胸に描きし高き夢 日々に破れてむしばめる むなしき心抱きつつ 夕べを騒ぐげんげ田を さまよいおればほのぼのと またさしそめし希望かな ああ若き日の希望かな jetshintanabata777@yahoo.co.jp 逍遥歌の謎解き(2)
逍遥歌の作詩者である阿部庄一郎氏のご子息の阿部琢也さんは、「父は、旧制一高に学び、戦後で何もなくなった状態で英語教師として来ました」と水沢との接点と次の様な新制水高の黎明期を語ってくれました。 * 旧制一高は、夏目漱石などの小説に出てきます。つっぱっている、バンカラ風などといわれていましたが、その対極にあるのが遠い存在である女性への憧れ、郷土の自然、風土への思いがあったと思います。 「新制の水沢高校がスタートしたときに、新たな気風をつくりたい」。それが旧制高校を体験からの気持ちだったのではないか。 父がどういう経過で作詩した経過を聞かないままに亡くなってしまいました。埼玉にいる姉(昭和26年卒)に聞いても経緯はわからない。推測でしかお話しできませんが、今日は資料を差し上げました。これは、今から33年前に東北新幹線が上野、仙台間で開通した時に、週刊朝日が特集増刊号で、私の同級生の佐藤通雅君が編集部からの依頼で寄稿した4ページの記事です。彼は河北新報の河北歌壇の選者であり、仙台で活躍している文学者です。彼が逍遥歌に対する思いというものを書いてくれていますが、内容は私の推測に近いと思っています。 逍遥歌の謎解き(3)
佐藤通雅さんのその記事は、昭和57年(1982)7月の週刊朝日です。「東北・風土と文学」と題して、「北上川流域の風土がひとを作る。風土が文学を生む」の始まりから、故郷への思い、逍遥歌の思い出を寄せている。「匂いやさしい白百合の・・と始まる北上夜曲が全国に広がったが、自分たちの心に秘密をあばかれるような気分だった」という前置きしたうえで、こんな内容で述べています。 * 同級生はむしろ「逍遥歌」という歌を愛唱した。試合に負けたときに、うたう歌があった。一同直立不動のまま、かなしく美しいメロディを口にし、応援団以下全員くやし涙にくれるという歌である。それを逍遥歌といった。 作詩者は同じ学校で英語を担当していた阿部庄一郎先生だった。彼はみごと一高に合格したが事情あって中退、その後北国の高校にやってきて教鞭をとっていた。古今東西にわたる深く広い教養はいつでも畏敬の的だった。結核をわずらい、長い闘病生活の末、退職を待たずに亡くなった。 きびしい自然風土に体を痛めつけられながらも、一方では山や川に慰撫されてきたのだろう。そういう孤高の想いと純潔な抒情がとけあって、一遍の詩となった。 逍遥歌の一番の歌詞を紹介し、また阿部庄一郎先生の人柄を偲びながら、このように結んでいます。 * 逍遥歌を歌うたびに、よるべない想いをいだいてさまよい歩いた北上川の岸辺がうかぶ。青春の日のかなしみや痛みもよみがえる。 自然風土が、まだ人の心とともに生きえた時代だったと今にして思う。 この記事は、「啄木・賢治・光太郎・・・かけがえのない開放と飛翔の場」、「土足で汚されたくない北上川流域」と二つの見出しがつけられています。阿部庄一郎先生とともに、東北にゆかりが深い石川啄木、宮澤賢治、高村光太郎に触れながら、「北上川は次の時代に、どのようなひとと文学を生むのか」と東北新幹線開通への思いを込めています。 逍遥歌の謎解き(4)
逍遥歌には原曲があります。水高ホームページでも紹介されていますが、旧制松本高校の思誠寮寮歌「春寂寥(はるせきりょう)」です。詩は少々違っていて、水高の詩は東北がテーマになっています。メロディは同じです。阿部琢也さんは、「父は音楽の方はまったくわからない訳で、このメロディになった経過はわかりません。謎です」といいます。 信州大学の入学式で、オーケストラの演奏と合唱団が歌っています。ユーチューブで聞く事ができます。調べてみると、信州大学でもこの歌を演奏するのは最近のことのようです。 信州大学の山沢清人総長が入学式で、ものごとを根本から考え、全力で行動することが、独創性を育てるという趣旨から「スマホやめますか、それとも信大生やめますか」と式辞を述べていますが、その次に思誠寮寮歌と外国語授業について触れています。 * 本日の入学式では二つの歌を皆様と一緒に歌うことになっています。一つは信州大学の前身の一つである旧制松本高等学校の思誠寮寮歌「春寂寥」です。大正九年に吉田実さん(作詞)と濱徳太郎さん(作曲)の二人の学生によって作られました。 旧制松本高等学校は、大正8年(1919年)に開校され、その後信州大学の発足にあたりその母体の一つとなり、文理学部に改組されて昭和25年(1950年)には閉校となりました。 文科と理科の専攻に分かれての勉強ですが、授業時間の4割が外国語、文科でも数学と自然科学が週5時間ほど課せられ、また理科でも国語及び漢文が週4時間ほど課せられる、文理の差が非常に少ないカリキュラムでありました。 ほとんどの生徒は思誠寮での寄宿生活であり、寮生活を通して、切磋琢磨により、自らの生き方を見出すという恵まれた時間をつくることができたと言われています。まさに独創性が育まれたということです。 https://www.youtube.com/watch?v=CaAzL-2DgXY 逍遥歌の謎解き(5)
阿部琢也さんは、「いまでも同窓会によって逍遥歌が歌い継がれ、信州でそのメロディが流れている。本当に嬉しいことです」と遺族を代表して感謝の気持ちを込めてくれました。「逍遥歌の謎」が少し解けてきましたが、阿部さんの話を聞き、立ちあがった同窓生がいました。 遠い松本のメロディがなぜ水高に伝わったのか。阿部庄一郎先生の教え子だったという久松豊さん(昭和26年卒)が鮮明に記憶していました。 * 阿部さんが長野とどんな縁があったのか疑問を持っておられましたが、じつは縁はあるのです。水沢高校の前身は旧制水沢中学校です。昭和21年に新設されましたが、その時に来た校長先生が河野光男という、遠野中から来た先生だった思いますが、英語の先生でした。 彼は水高になってから長野に移って行きました。今の信州大学です。だから当時は河野先生とのご縁はあったと思います。 私の同級生には多種多彩、いろんなことをやる連中がいて、旧制松本高校のメロディもみんなで話し合いながら出来上がったのではないかと思います。 当時は水沢中学校から新制水沢高校になった訳ですが、水高になっても何もありませんでした。なにせ校舎すらありませんでした。校歌もありませんでした。 そんな何もない時代でしたから、資料、情報など集めながらの授業でした。先生も生徒も一緒になって学校づくりをしていました。 そんな何もない時代に阿部庄一郎先生がいました。先生とじかに接触があったのは我々の年代でした。私は英語でしこたま鍛えられました。今思えば、大変なことをやっていたんです。高校2年、3年のころ、阿部庄先生から「お前ら集まれ!」と、公民館のような所で英語の原書、抜粋ですが、講読をやらされました。デンマークのオットー・イェスペルセンという世界一の文法学者の抜粋を阿部庄先生は資料にして我々に教えてくれました。私はそれまで知りませんでしたが、辞書もオックスフォード大辞典、COD(Concise Oxford Dictionary)を使っていました。阿部庄先生はいつもこの辞書を引き下調べをして、ガリ版で刷って、私たちに渡してくれました。 何にもない時代ではありましたが、教師と生徒が一丸となって新しい試みをした時代であったことは確かです。 私は、阿部庄(あべしょう)の影響で、高校、大学の英語教師になりました。あとで後悔したことがありますが・・・(笑)。 逍遥歌の謎解き(6)
河野光男校長とはどんな人物だったのだろうか?謎が深まりました。仕事を先送りにしてパソコン検索が始まりました「河野光男 水沢高校」で1件ヒットしました。信州大学教育学部同窓会の会報、平成8年6月15日第10号でした。それは平成7年2月26日に逝去されたという悲しい記事でしたが、水沢との接点が明らかになりました。次の内容でした。 * 明治38年2月1日生まれ。広島県出身。昭和6年東京大学卒。昭和22年水沢中学校校長から長師(長野師範学校)教授として着任。昭和26年信州大学教授。昭和45年3月定年退職。英語,英文学担当。専門はシェークスピアなど。名誉教授 河野光男校長は、シェークスピア専門の英文学者でした。英語の阿部庄一郎先生と同じ時代を水沢で過ごし、英語教育や英文学を語り合ったのだろうか。信州大学の特徴の外国語教育について山沢総長が語っていますが、河野校長は信州へスカウトされたのではないか。信州に赴任した河野校長が阿部庄一郎先生に春寂寥という曲を紹介し、そのメロディと詩を生徒たちが受け入れ、水沢バーションの逍遥歌が出来上がったのか。信州と奥州の繋がりは今以上に深かったのではないか。そんなことを想像しています。同窓生の記憶や多方面からの情報をもう少し集めながら、謎解きを進めていきたいと思います。 そんな記憶のひとつが水高同窓会のホームページの「輝く同窓会」にありました。 コロンビア大学建築学部で教鞭をとっている工藤国雄さんは、「受験の神様といわれた伝説教官の阿部庄先生に巡り合ったことがアメリカ留学に繋がった」と語っています。また、「当時、ニューヨークタイムズを取り寄せて読んでいた。その切り抜きを『読みなさい』と言ったきり1時間でも、2時間でも黙っていた。最後に『何か分かったかね』でした」と入院中にもかかわらず個人教授してくれたエピソードも紹介しています。 一方、「まだ男子女子の教室が分かれていたころで、男子学生は高歯の下駄をはいて腰に手ぬぐいを下げ、高らかに「胸に描きし甘き夢、日々に破れて傷つける〜」と水高逍遥歌を唄って歩いたのです」と述懐しています。 逍遥歌の謎解き(7)
水高第一応援歌、水高賛歌も作詩された阿部庄先生と河野校長の繋がり、さらには逍遥歌が当時の高校生の心のなかに深く残っていること、そんなことを確認できた同窓会でした。阿部琢也さんから最近こんなメールをいきだきました。 * お陰様で私自身も何かしら満足感をもって会場を後にすることが出来ました。 逍遙歌について久松さんがコメントして下さった「河野先生」のお名前が気になって、私も同窓会名簿から水沢中学校校長をされたことまでは辿り着けましたが、更に詳細な事実を探られたことに敬服いたしました。 逍遙歌と旧制松本高校の繋がりの一つの糸口になりそうな気がいたします。 信州大学山沢学長の入学式あいさつ全文は、まことに含蓄のある式辞で、「スマホやめますか、それとも信大生やめますか」は、確かマスコミでも話題になった記憶があります。思誠寮寮歌についての言及があることを見出されたことにも感謝の念でいっぱいです。 「輝く同窓生たち」の工藤国雄さんの文章も、たいへんな感激をもって読ませていただきました。実は、工藤さんのお名前は私が小学生の頃に父や母の口からよく聞いており、東京工業大学という難しい大学に合格されたという話が私の記憶に残っています。工藤さんの文中にも、逍遙歌について語られていることをうれしく思いました。 私たち身内の者でさえも「もう過去の遺産」のように思っていた逍遙歌に光を当てて下さったことに心より感謝しております。 逍遥歌の謎解き(8)
私の逍遥歌の記憶は,昭和20年代に青春を送った先輩とは少々異なります。昭和40年代半ば,胸が躍り,上級生への怖れを抱きながら水高に入学、朝の応援歌練習に臨みました。そこにはバンカラというか,ボロをまとった応援団が仁王立ちしていました。校歌も応援歌も「音楽」というよりは,大声を出し,歌詞を暗記する手段だったように思えます。 逍遥歌の歌詞はおぼろげながら記憶しているのですが,メロディはどんなだったか。なにせ,応援団の指導でしたから,音楽指導には程遠かったと思います。私は剣道部。試合があっても,応援の生徒はいません。当然,応援歌,祝勝歌,逍遥歌に臨場感がありません。なぜか野球部だけが大勢の応援があり,時には全校応援もありました。ひがみではなく,世の中の関心というものでしょうか。そんな私でしたから,逍遥歌を歌ってもらったという実体験はなく,よって記憶が薄れたのだろうと思います。 逍遥歌の謎解き(9)
では先輩たちはなぜ逍遥歌を愛し,歌っていたのでしょうか。おおいなる謎でした。久松豊さんが「当時は何もなかった。教師と生徒が一緒になって学校づくりをした」とも語っています。校舎移転や授業、学校運営,校風づくりも取り組む必要もあったでしょう。そう考えると,水高をどんな気風に作り上げるかというのも一大事と思われます。学校側がメロディや詩を一方的に作り,生徒に示したところで,それは定着しにくい。逍遥歌の作詞や作曲も教師と生徒の話し合いがあったに違いありません。生徒が参加して作り上げたプロセスがあったからこそ認知され,共感され,実際に歌われたのではないかと推測しています。そう考えると,逍遥歌は阿部昭一郎先生と生徒たちとの合作で、作詩の代表者が阿部先生ともいえるのではないか。そんな気がします。 同窓会仙台支部の報告を同窓会ホームページに掲載したところ,同窓会事務局をされている谷木悌典先生からEメールがありました。なんと,関東支部では逍遥歌を歌っているというのです。「逍遙歌は同窓生の心の中に深く刻まれた歌のようで、86名の参加者全員で歌ってきました」ということでした。 何もない時代に先生方,先輩方が友愛、清新、気魄の精神の校風を作り上げ,今でも脈々と繋げています。伝統のよりどころのひとつが逍遥歌だったのではないか。この歌の謎解きは,水高に関わる1人ひとりが時代を超えた水脈があることを確認するものだったかも知れません。 逍遥歌の謎解き(10)
逍遥歌に関するご記憶、エピソードなど同窓会ホームページ「みんなの交流掲示板」または下記のEメールのお知らせください。 jetshintanabata777@yahoo.co.jp 水高同窓会仙台支部 佐々木 伸(25回生・昭和48年卒) 謎解きは興味深いですね。
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謎解きにある情報が、これまでスルーしてきたことが意味のあることに変わっていくいい例になりました。旧HPアーカイブに水高100周年記念誌が載ってますが、中に河野光男校長の写真がありました。 記念誌によると、当時の学校は学制改革などで目まぐるしく変わっていたことが分かります。 そのような時代の中で、水高のよき校風が旧制県立水沢中学校から受け継いできたことも想像されます。 Kさんからメールがあり、同窓会会報の第21号(平成5年)、第26号(10年)に逍遥歌の記事が掲載されていることを教えていただきました。この部分をお持ちの方、電子データで読めるようにしていただくと嬉しいです。また、Kさんから次のエピソードが添えてありました。
謎解きの連載、たいへん興味深く嬉しく読みました。昨年9月、関東支部同期会に出席した折に、全員で「第一応援歌」に続き「逍遥歌」も歌いました。やはり、胸にジーンとくるものがありました。 20年ほど前に会社の後輩の結婚式に招かれた際に、新郎の友人が逍遥歌にそっくりの曲調が披露され驚いたことがありました。新郎は信州大学卒業の方でした。後日、後輩を訪ねたときに水高の逍遥歌のことを話し、不思議な縁を語り合いました。 私の青春時代にも「胸に描きし甘き夢 日々に破れて傷つける」の時がありました。昭和34年に水沢を離れましたが、”水沢が心の原点”と思っています。 No.1646 関東地区同窓会 学年別挨拶:昭和30.40年代... 事務局 2015/11/21(Sat) 16:13 学年別挨拶を掲載いたします。写真部分をクリックすると画像が拡大されます。またコピーも可能です。
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No.1632 水高同窓会仙台支部の交流会を開催 佐々木 伸 2015/11/12(Thu) 17:53 水高同窓会仙台支部総会および宮城の食材を楽しむ昼食会を,長野耕定水高同窓会会長,安藤泰彦水高校長をお迎えし,11月1日に仙台市宮城野区のホテルパレスホテルで開催いたしました。
今年の総会は,夏前に根反秀樹事務局長(昭和52年卒)が東京転勤となり,3人が引き継いで担当しました。司会進行は佐藤孝年さん(51年卒),受付・フロアマネージャーは吉田幸雄さん(52年卒)、事前の準備と水高のCD・手拭担当は佐々木伸(48年卒)と分業で行いました。 齋藤健仙台支部会長から「今年は連年より多くのご案内を送付しました。参加は40人を切る人数でしたが,欠席できなかったけれども水高とのご縁を感じてとてもうれしかったという声が多く寄せられました。こうした通知ができるのも本部からの支援があってこそ。改めて感謝します」と挨拶がありました。 長野会長から「毎年、仙台支部との交流で同窓会の意義を感じる」、安藤校長からは「スーパーサイエンスハイスクール事業の成果,生徒ひとり一人の個性を伸ばす教育」など近況を伺うことができました。 昼食会の開催は、昨年に引き続いてのもので,「夜は参加しにくいけれど,日曜日のお昼だとうれしい」という女性の意見がありました。 今回は、逍遥歌の作詩者である阿部庄一郎先生のご子息の阿部琢也さん(昭和36年卒)に話題提供者になっていただき、歌ができた背景や生徒に残っている記憶などを語っていただきました。当時、直接教えを受けたという久松豊さん(昭和26年卒)からは、阿部庄先生の英語教育への情熱、具体的なエピソードを聞く事ができました。短い時間でしたが、逍遥歌が持っているチカラを共有できた交流会でした。この経過は、後日お知らせしたいと思っています。同窓生の皆様、逍遥歌に関する情報がありましたら、ぜひお聞かせ下さい。 平成27年11月12日 水高同窓会仙台支部 佐々木伸(昭和48年卒) jet.shin-mds@jcom.home.ne.jp 逍遥歌については、作詞者である阿部先生のご子息からお話があったかとおもいますが、旧HPの中に少しだけ情報があります。
以下のアドレスに校歌・応援歌のページがあります。一部は音付です。 http://www.imizuko.com/htmpage/kooka.html スポーツ大会では負けたことが多くあった印象があり、結果、逍遥歌はたくさん歌った記憶が残ってます。 勝敗には関係なく、逍遥歌はいい歌ですね。 逍遥歌の情報を頂きありがとうございました。
校歌や応援歌の歌詞はたどり着いていましたが、メロディがあるとこと気づきませんでした。 逍遥歌など、まだないものもありましたので、こうした分野に強い方の更新が期待されます。 なお、私がもっているCDは創立100周年記念のものです。仙台支部の方がら、歌詞が欲しいというお話がありました。100周年記念誌で紹介されています。同窓会ホームページは一番下の「アーカイブ旧ホームページ」からアクセスできます。 No.1634 関東地区同窓会懇親会1 元事務局子 2015/11/14(Sat) 09:56 長野会長挨拶。
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片岡副校長の挨拶。水高の近況をお話いただきました。
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志学館の空調設備一式を寄付くださった及川修さんへ感謝状が贈呈されました。
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