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盗人と法螺 | |
1. 屁たれ蔵番 |づもな||戻る| |
「出もの腫物、所嫌わず」と、私の爺は屁をした後に、よく言ったものだ。「屁ったれ嫁」(の話し)にも、屁の効用というものがあった。 鼠小僧ではなかっただろうが、ある金持ちの家に、頻繁に泥棒が入った。蔵の鍵を二重三重にしても、鳴子を張っても、どうにもならなかった。どうしたら泥棒に入られずにすむかと、思案していると、蔵番にもってこいの男がいると聞いて、旦那様はその男を雇うことにした。 その男は、目は見えなかったが、耳のいい男で、なによりも大きな屁が、いくらでも出る男だった。だから、泥棒があの手この手で入って来ても、すぐに「誰だ、誰だ」と、四里四方まで聞こえる屁をした。 さあこうなると、盗人もお手上げだ。家族を抱え、飯の食いあげになる。ところが蔵番の方も、旦那様から褒められて、少し得意になっていた。俺さえ居ればもう盗めないだろうと、或る晩好きな酒、飲み過ぎて油断した。すると泥棒も、畑から取ってきた茄子を、蔵番が眠ってるうちに、尻へギリリと突っ込んで、まんまと盗んで行った。 「茄子の巾着は口が開かない」と、言うが、尻の口もだんまりだった。なにごとも調子に乗ると、失敗するものだ。 |
2. ふるやのむるや |づもな||戻る| |
雨が、しとしと降る晩だった。爺と婆を食べようと来た虎と、馬を盗みに来た泥棒が、「早く爺と婆が眠らないかなぁ」と、軒下でじっとしていた。 「ねぇ爺さん、この世の中で、なにが一番恐ろしいかなぁ?」 「そうだな、狼も虎も恐くないし、化物だって恐くない。何と言っても、人間が一番恐いんじゃないか」 「いいえ、私ならなによりかにより、この家の古い家の雨漏りが、一番恐い。早くなんとかして下さい」 爺と婆の寝物語に、合わせたかのように「ボダッボダッ」という音を間いた馬泥棒は、驚いて、虎の背中に乗って逃げたが、途中で穴に振り落とされた。 それを見ていた猿が、馬泥棒とは知らず、穴に尻尾を入れて助けようとした。泥棒は必死で、猿の尻尾につかまったせいで、猿の尻尾は、取れてしまった。 それ以来、日本の猿は、尻尾が短くなってしまった。虎は、千里行って千里戻るそうだが、玄界灘も飛び越えて朝鮮へ逃げ、帰ってこなかった。それで、日本には虎が居なくなった。なんでも過ぎると、元へ戻られなくなるものだ。 |
3. ベゴ医者 |づもな||戻る| |
江戸時代に、東国三十余州に聞こえた、大泥棒がいた。ところがこの泥棒は変わっていて、大名の江戸屋敷ばかり狙って入るのだ。しかも盗むのは、大名連が大事にしている「名刀」ばかりを狙った。 武士の魂である刀を盗まれるとは、なさけない奴だと言うんで、侍を馬鹿にするようにやったものだから、江戸の町の連中も、小気味よく思っていた。 この大泥棒が、昼間は、町医者の恰好をしていたが、本式に医者になったわけでもなく、見よう見真似で覚えたらしいが、なかなか腕も良く、銭の無い人からは、治療代も取らなかった。 なんでもできるこの男は、夜になると、明かりが無くとも、目は見えるし、鶏や犬猫とも、話ができた。ところが、ある時、片倉小十郎の名刀を盗んだが、どうやら小十郎の方が一枚上だったようで、掴まってしまった。 以来この大泥棒は、小十郎と約束して、伊達領内と、伊達の江戸屋敷だけは、荒らさないことになった。この男が、五十になったら、一の子分で、薄衣(岩手県東磐井郡の地名)の鬼の目太蔵に譲り、古城(前沢の地名)に隠居をした。 古城で隠居暮らしをするといっても、ただ居なかった。医業に専念して、銭の無い百姓にも、ちゃんと治療をしてくれて、牛に乗って往診もしてくれた。幼少の名前は兵助で、藤木道満という義賊の話だ。 |
4. ナダ巻盗人 |づもな||戻る| |
昔北上川には、堤防もダムも無かったから、暴れ放題だった。三ケ尻の瘤木(金ケ崎町の地名)下あたりにも、大きな渦巻きがあって、恐くて近寄れなかった。その付近では、「鉈巻」と言っていた。 ところが、その辺に、鉈巻よりも恐い与治右工門と言う、一匹狼の、大泥棒がいた。昼はボーっとしていて、誰も気付かなかった。鼠小僧のように、夜だけ稼いでいたようだ ある時、胆沢川の土手で、ボーっと渡船を見ていたら、大荷物を背負った、商人が乗ってくるのを見つけた。すると欲がムクムク出てきて、真っ昼間なのに、荷物だけならともかくも、はずみで商人も殺した。 何処かで見ていた人がいて、間もなく取方達が追いかけてきた。ところが与治右工門の足が速くて、荷物は藪の中に隠して、家の木小屋で、知らん振りをして藁を打っていた。だが取手に追いつかれて、捕えられそうになったら、木槌と藁を持ったまま、鉈巻の中ヘザンブと飛び込んでしまった。 いくら経っても、木槌しか浮いてこないので、「与治右工門といえど、これで土左衛門だな」と、取方達は帰ってしまった。薄暗くなってから、ケロっとした与治右工門が、濡れた着物を着て、鉈巻からあがってきた。片手に、淵の底で編んだ草鞋二足、持っていた。 |
5. 南部手間取り |づもな||戻る| |
昔と言っても、百年も経ってない時のことだ。水沢付近に、南部衆達が、たくさん出稼ぎに来た。ところが、この連中ときたら、どれもこれも大飯食らいばかりで、食べるも食べるもんだから、出るものもそれなりだった。 あげくに、とげとげしいのであれ、小さいのであれ、その辺の木の葉を千切って、それで尻を拭うものだから、庭木なども、さっぱりと坊主にされた。 だが、昔は金肥などという、化学肥料も無かったから、牛や馬ばかりでなく、人の排泄物も、大事な肥料だった。ご飯をたくさん食べられても、小便やうんこは、歩戻しみたいなものだった。 だから、雇い主の旦那様も、「仕方が無いな」と思っていた。ところが、ある時、村長の家に、働きに来ていた若者が、収穫作業も終わって、南部へ帰る日に、前から目を付けていたらしく、手間賃のほかに、村長のポケットから、金時計を盗んで逃げた。 「まだ遠くまでは行ってないだろう」というので、皆で追いかけた。ところが、どうしても見えないし雪も降ってきたからと、別の道を捜しながら戻ってくると、雪の上に金色の丸いものが、点々と落ちていた。「あれぇ、村長は、なんとたくさん金時計を持っていたんだろう」と、掴んでみたら、例のもの(人糞)だった。プンプン臭うのは、肥溜樽の下まで続いていた。 |
6. カンカン石 |づもな||戻る| |
昔、水沢の町で、盗人がたくさん出て、皆困っていた。商人町で、若者がゴザー枚と、茶碗二個盗んで、石巻沖の、田代島に流されたという、古文書が残っているくらいだ。人の物を盗めば、厳罰だった。 さてどうして盗人を探して、盗人がこれ以上はびこらないようにしたらいいか、と、雁首を揃えていたところへ、長光寺の和尚が来て、「拙僧に任せよ」と。 二、三日して、町中に知らせが回った。「某月某日、巳の刻五ッ半(というから、午前九時頃でしょう)、老人も男も女も、歩けるようになった子供も皆、長光寺の庭に集まれ。来ない者は、盗人と見倣して、所払いにする」というのだ。 皆何事だと、寺の庭に集まって、溢れた列は、町の外まで続いた。すると和尚がおもむろに、「この目の前にある石は、霊験あらたかな、仏の石であーる。この木槌をもって、この石を叩かば、良民においてはカンカン、悪事をはたらく者が叩かばゴンゴンと鳴る」と、何回も言った。検断(司法権を持った役職)達は、皆を一列に並べて、次々と石を叩かせた。 誰もかれもカンカンと鳴って、列は進んでいったが、ある男が、自分の順番近くになったら、小便だといって抜け出して、それっきり町では姿が見えなくなった。カンカン石は、今でも長光寺の庭にある。 |
7. 法螺吹き |づもな||戻る| |
焼石岳(奥羽山脈)の西側に、羽後では一番だというホラ吹きがいた。俺の相手になる奴はいないから、手倉(旧仙北街道)越えて陸中の国へでも、ホラくらべに行ってこようと、峠を越えて胆沢に入ってきた。 一服してから先へ行こうと、通りに面した一軒家に寄って、「タバコの火、貸してくれ」と入っていくと、七歳ぐらいの男の子が、炉端で居眠りをしていた。羽後一番のホラ吹き男は、「お父さんは、畑にでも行ったのか?」と聞くと、その子供は、「経塚山(焼石連峰の山)がこっちへ倒れかかっているから、突張りをかけてくるからと、線香三本持って出かけたが、すぐ戻ってくる」と言った。 羽後のホラ吹きは、ドキッとしたが、「じゃ、お母さんはどこへ行ったのか」と聞いたら、「昨夜から、風が強く、屋根を飛ばされるとだめなので、一寸お空へ行って、風袋の□を閉めてくるからと、馬の尻尾を一本抜いて、出かけました」と、ケロッとして、囲炉裏の灰をならしていた。 こんな子供でさえ、ホラを吹くから、羽後のホラ男も驚いた。でも羽後一番の名に掛けてもと、「昨夜俺の村の寺の鐘が、こっちの方へ飛ばされて来たようだから、結わえて帰ろうと、藁茎一本持って来たが」と言うと、その子は「今朝まで家の軒下のクモの巣に、鈴みたいな、鐘が引っかかっていたが、さっきの風で、陸中海岸の方へ飛んで行ったようだ」と言った。 |
8. 麦の褌 |づもな||戻る| |
ホラ吹き名人の男がいて、「また、ホラ吹き姶めた」とわかっていて、いつも周囲では、ひっかかってしまう。腹を立てた若者達が、タラの木(刺のある食用山菜タラの芽の木)で簀を作り、簀巻きにして、胆沢川に流してやろうとしたら、「この世の見収めに、屋敷林の村々をもう一度見たいから」と言って、どこかへ逃げていった。暫く経ってから、目の悪い爺が来て、「今、どこかの若者に、タラの木の簀巻きにしてもらうと、すぐ、目が治ると聞いてきた」と、またやられてしまった。 ホラ吹き男は、これではとても、水陸万頃の胆沢に居られないと思って、西山(奥羽山脈)越えて、新潟のあたりでもあろうか、そこから船を漕いで、朝鮮へ行ってしまった。ハングルでは、ホラも通じなかったらしく、真面目に働いていたが、何年かしたら、やはり生まれたところが、恋しかった。 皆へのお詫びのしるしに、何かみやげを持って帰ろう、ということで、朝鮮の珍しい穀物を持って、帰ることにした。みつけられないように、どうして持って行こうかと、あれこれ考えてみた。これなら、いいだろうと、褌の中に、隠して、帰ってきた。 その穀物というのは、大麦だった。大麦の粒の真中に、褌のような跡があるのは、ホラ吹きが、褌に隠して、朝鮮から持ち帰ったからだと、ホラ吹きの、隣の爺の話だ。 |
9. 韋駄天 |づもな||戻る| |
韋駄天と言うのは、バラモン教の神様が、後で仏に仕えて、増長天の八大将軍の一人になるのだそうだが、足の速い神様のこともいう。 衣川に、韋駄天の太郎左衛門という、忍者みたいな男がいた。何かの祝い事があるたび、用足しをしてくれた。米の取れない年でも、「今日は、どうしても餅を搗かなきやならない」と聞くと、豊作な秋田まで走って行って、糯を買ってきて、「米を磨いでおけ」と、ドサッと置いていった。 「でも、小豆はあるけど、砂糖が無いしなぁ」と、女房達が、心配してると、「なに、一寸待っていろ」と、太郎左衛門は、水沢まで走ってきて、砂糖を買ってきてくれた。 祝い事だろうが、忌み事だろうが、とにかく太郎左衛門に頼めば、秋田なり、水沢なりへ、一日どころか、昼飯前に走り回って、どんな時でも聞に合うぐらいの事をしてくれた。 太郎左衛門の忍者のような技は、遺伝する。この男の孫に当たる八十の婆は、やはり忍者のようだった。田植えの時のぬかるんだ田の畔を、苗籠背負って、一本足駄で走り回ったそうだ。 (北上川の)川東へ用足しを頼まれれば、家の裏の朴の木の葉を二枚持って、着物の裾を、捲り上げると、朴の木の葉に乗って、北上川をスーっと渡った。 |
10. 仁王とガ王 |づもな||戻る| |
長光寺の山門の両側に、赤い立派な仁王様が立っている。金剛力士像というが、片方は□を開けた阿形像で、もう一方は□を閉じた吽形像と言うんだそうだ。 その仁王様は、日本一の力持ちだったから、国内では、相手になる者も居なかった。すると、中国の方に、仁王様より強いだろうという、ガ王様の話が伝わってきた。 「俺より強い奴とは、どんな奴か、一度、勝負してみたいもんだ」と思って、二人の仁王様は、中国へ行ってみた。ガ王の家へ行ってみると、「この通りの水害で、ガ王は長江の幅を広げなければ、ダメだと、出掛けたばかりです」と、ガ王の妻は、臍まで水に漬かって、家を持ち上げていた。 「女房がこれでは、太刀打ちできない」と、仁王様は、慌てて日本に帰ってきた。ところが、六千三百キロもの長江の川幅を、三日ほどで広げて帰ってきたガ王は、妻から、日本の仁王達の話を聞いて、「なに、そんならこっちから出向いて、力比べをしてやろう」と、東シナ海を、一人で船を漕いで来た。 くたくたになって、ガ王は、やっとこ日本へ辿り着いて、いきなり仁王に力比べを申し込んだが、旅の疲れもあってか、仁王様に負けてしまった。その時から、「弱った」という言葉が、うまれたのだ。 |
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