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平成27年度スーパーサイエンスハイスクール生徒研究発表会に水沢高校が参加

平成27年度スーパーサイエンスハイスクール生徒研究発表会に水沢高校が参加

文部科学省と国立研究開発法人科学技術振興機構(JST)が8月5日から大阪で行うスーパーサイエンスハイスクールSSH生徒研究発表会に、岩手県立水沢高校が参加し、「水飲み鳥の動力学の解析」というテーマで発表を行います。 全国の203のSSH指定高校から約3,000人の生徒が参加し発表会を行うもので優秀な発表は文部省から表彰されます。

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「志学館」空調設備をご寄付頂きました

志学館の空調設備の更新についてお知らせいたします。
志学館は創立80周年記念事業の一環として同窓会が費用を出して建築されました。
1学年240名を超える生徒が一斉に授業を行うことができる大教室で、課外授業や、放課後・休日に生徒が自学自習できる場として活用されています。
 昨年、志学館の空調設備が老朽化のため故障し、新しくしなければならない状況となりました。あまりに高額なため、県費や教育振興費からの支出が困難な状況でした。志学館建築の経緯から同窓会からの支出が妥当と考え、5月の同窓会役員会にて、同窓会特別会計より支出する旨、承認を頂きました。見積もりをとる際、空調関係の会社経営者である本校同窓生の「研空社」代表取締役社長 及川 修 様(S44卒)を同窓会監事の藤田様よりご紹介頂き見積もりをお願いいたしました。その後、設備更新工事一切(大型の室外機3台・エアコン9台、工事費、取り外した室外機等の廃棄料等)について及川様より寄附の申し出を頂き、ありがたくお受けすることとなりました。工事は6/29~30の2日間で完了、受験に向けて夏休みを返上して課外に取り組む3年生に、涼しい学習環境を提供することができ、大変役立っております。
 及川 修様に心から感謝申し上げるとともに、同窓会会員皆様にご報告させて頂きます。

盛岡支部総会・懇親会のお知らせ

日時 平成27年7月10日(金)

午後5時  講演会 平賀 和幸(昭和54年卒 NHK盛岡放送局長)

       演題  「放送と情報 人と情」

午後6時~ 総会・懇親会

場所  サンセール盛岡 盛岡市志家町1-10 電話

TEL  019-651-3322

会費  4000円

 参加をご希望される方は、下記までご連絡下さい

事務局 千葉務(S37卒)    TEL 019(647)0212

水沢高校は準決勝で花巻東に敗れた

春の東北地区高校野球岩手県大会の準決勝で、水沢高校は花巻東に8対0で敗れ、決勝進出はできなかった。

春の全国高校野球岩手県予選、準決勝戦が5月23日に 水高は花巻東と対戦

春の全国高校野球岩手県予選、準決勝が23日に

水高は花巻東と対戦


 

 準々決勝で水高は久慈を4-2で破り準決勝進出。

準決勝は23日、洋野町種市のオーシャンビュースタジアム、花巻東

と対戦、申し分無い相手。


 第62回春季東北地区高校野球県大会第4日は18日、洋野町種市のオーシャンビュースタジアムなどで準々決勝4試合を行い、水沢、盛岡大付、花巻東、一関学院が4強入りした。盛岡大付は八回に逆転し5-4で専大北上を下し4年連続、一関学院は花巻農に3-2で競り勝ち、5年連続のベスト4。水沢は久慈を4-2で退け4年ぶり、花巻東は3-1で盛岡三を下し2年連続の準決勝進出を決めた。準決勝は23日、同球場で水沢-花巻東、盛岡大付-一関学院を行い、東北大会に進む県代表3校のうち2校が決まる。(岩手日報から)

http://www.iwate-np.co.jp/cgi-bin/news.cgi?ky=20150519_1 

 春の全国高校野球岩手県予選、水高は二回戦も圧勝 

水高は二回戦の相手軽米に 10-0 と5回コールド勝ち。ベストエイトに進出。

他校ではベストエイトに花巻東、盛岡大付、一関学院、専大北上等の強豪校が残った。

春の全国高校野球岩手県予選、水高は初戦、盛岡一に完勝    

地区予選を勝ち抜いた水高を始め、32校が出場。昨日と今日が第一回戦。水高は初戦の相手、盛一に 11-6 と完勝した。

国際語エスペラントと岩手県 : 石川尚志(水沢高校15回生、1963年卒)

国際語エスペラントと岩手県

 石川尚志(水沢高校15回生、1963年卒)

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  今から半世紀も前のこと、1961年の5月のある日江刺郡愛宕村の農家に4人の若い男女が集まった。国際語エスペラントを普及する団体、日本エスペラト学会(現在は日本エスペラント協会)の会員たちである。場所を提供した農家の娘高橋恵美子さん、東京医科歯科大学のインターンで当時無歯科医地域だった千厩に短期派遣されていた太田章雄さん、花巻の男性小田島さん、それに水沢在住で水沢高校の二年生だった私の4人なのだが、私を除いてみな二十代の後半だったろう。太田さんが歯科治療の余暇を利用して岩手県南の会員の交流を図ろうと呼びかけて実現したのである。


 国際語エスペラントというのは、1887年にポーランドの眼科医ルドビコ・ザメンホフ博士が提案した言語で、言語が異なる民族間の意思疎通を易しくするために、主に欧州で使われている主要な言語を合理的に勘案して作られた。国際語なら英語(かつてはフランス語)があるじゃないか、と言われるかもしれないが、英語を使うということは英語を母語とする国民に多大の利益を与え不公平であるし、英語は発音も文法も不規則で学びにくい。そこでどこの国の言葉でもない中立的で不規則のない学びやすい言語が求められる。昔から何千という計画(人工)言語が発表されたが現実に使われているのはエスペラントだけである。

 ゼメンホフ エsぺらんと文字

 さて、4人が会ったのは一度きりで、私は63年には大学入学のため上京し一二度帰省のときに高橋さんとお会いしたがその後は多忙にまぎれてご無沙汰してしまった。高橋(のち結婚して五味)さんはその後、内科開業医の佐々木滋先生などと水沢エスペラント会を作り講習会を開いたり東北のエスぺラント運動に貢献された。佐々木先生は、東北大学在学中からエスペラント運動に参加、63年頃から水沢で活動を再開され、66年には高橋さんとともに水沢での第4回東北エスペラント大会開催に尽力されたようである。先生は、気管支拡張症を患っていた私の子供時代の主治医で大変お世話になったのだが、残念なことにエスぺランチストとしての先生に御目にかかることはついになかった。

 私はいま埼玉県に自宅を持ち5年ほど前から母の介護のため東京在住の姉と交代で水沢に来ているのだが、みたところ今の水沢にはエスペラントの痕跡はなさそうだ。県全体を見渡しても盛岡にエスペラント会があるだけだ。だが日本のエスペラント運動の歴史をひもとくと岩手県にゆかりのある輝かしい人物像が現れる。

一番古いところでは、盛岡出身の田鎖綱紀(1854-1938)だろう。彼は日本語速記法の創始者として知られるが、のちにエスペラントや中国語、朝鮮語の速記法も考案した。彼は友人の作家、二葉亭四迷の影響でエスペラントを始めたとされる。二葉亭は日本最初のエスペラント学習書を著わしている。柳田国男の『遠野物語』の語り部となった佐々木喜善は、柳田に刺激されエスペラントを学び、のちに述べる宮沢賢治の勧めで1930年頃花巻で講習会を開催している。岩手県の生んだ最大の国際人、新渡戸稲造は、エスペラントの理解者、後援者であって国際連盟の事務局次長を務めていた1922年の連盟総会に「国際補助語エスペラントを公立学校の科目に編入する」という提案を可決させることに尽力した。

新渡戸の後援者であり、彼をジュネーブに送り込んだ後藤新平も1927年頃と思われるがエスぺラントの普及講演会で講演するほどの支持者であった。彼の娘婿である政治家、鶴見祐輔は大変な英語使いであったが、エスペラントを学んでいる。

 宮沢賢治エスペラント詩

 宮沢賢治は1926年の12月、東京において駐日フィンランド大使で言語学者のラムステットの講演を聞き、講演後ラムステットから、「著述を世界的に広めるならエスペラントによるのが一番」と勧められる。その後エスペラントを学んで翌1927年には羅須地人協会でエスペラントの講義もしている。「エスペラント詩稿」という未発表詩八編を残しているが、学び始めて日が浅いせいかエスペラントは誤りもある。賢治はエスペラント詩人として大成するには時間がなかったが、彼の詩想と世界観にエスペラントの理想が結びついたとき豊饒な文学世界が生まれたかもしれないという思いは強い。

今、釜石線の各駅にエスペラントの愛称がつけられていているのをご存知の方も多いだろう。花巻がĈielarko (チエルアルコ、虹)、土沢 Brila rivero (ブリーラ・リヴェーロ、光る川)、遠野 Folkloro (フォルクローロ、民話)、宮守 Galaksia kajo(ガラクシーア・カーヨ、銀河のプラットホーム)など賢治ワールドを想起させるような愛称である。

 エsぺらんと遠野 エスペラント花巻

 発表から百数十年をへてこの言葉は着実に世界中に根を下しており、世界中でエスペラントを話す人は百万人を超えるといわれる。文学作品の創作や各国語からの翻訳も多くでている。ところが戦後の日本で一時期国語や英語の教科書に載っていたエスペラントやザメンホフの話もなくなり、エスペラントのことを知らない人が多くなっている。戦前は、後藤新平、鶴見祐輔、宮沢賢治などの例に見るように、エスペラントの存在は教育のある人の間では常識であり、好意的に受け止められていた。しかし、こんにちでは理想主義的なエスペラントの主張は、現実主義、功利主義的な英語一辺倒の風潮にかき消されて世間の人の耳にはなかなか届かない。

 たしかに英語は必要だ。特に政治家、海外との取引に携わる人にはもっと英語をやってもらいたい。私自身、外資系企業や日本企業で渉外の仕事を長年やってきて英語で飯を食ってきたと言っていいほどだが、それにも拘わらず、いやそれだからこそ、特定の国の言語を国際語として押し付けることの不合理をいやというほど感じてきた。つまり英米人と英語で仕事をする、議論をするということは相手のホームグランドで戦うということ、英語をマスターするということは、英語の発想法、英語のロジックを受け入れることに他ならないと実感した。

一方で、科学的な根拠に基づかない英語早教育ブームには危惧を覚えざるを得ない。日本語の基礎が出来ていない子供のうちに英語を教えることの弊害は専門家によって指摘されているし、中途半端な英語早教育は英語嫌いを助長しかねない。外国語を教えるにあたって例外のないエスペラントを先に教えてその後から英独仏などの言葉を教えるほうがかえって効率がよいという実証実験の結果がヨーロッパや中国の小学校で報告されているのだが、米国一辺倒、近視眼的な文部官僚やそれに惑わされている親たちの耳には届かない。

  私がエスペラントをやっているのは上記のような理想があるからだが、もっと身近な動機としてエスペラントを使っての海外旅行や国籍や身分にこだわらない交わりに英語では味わえない楽しさ、親しさを味わえることを挙げたい。

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一昨年は第100回日本エスペラント大会が東京で開かれ、700人あまりの参加者があったし、作年は11月2日、3日と盛岡で東北大会が開かれ73人が参加し、今年の10月には仙台で第102回の日本大会が開かれる。新渡戸稲造や宮沢賢治のような先覚者によって種が蒔かれ育てられてきたエスペラントが再び岩手の地で大きく花開くことを期待したい。

                                                                                                                                   了

 

 

2015年日高火防祭 写真集

好天、熱かった、ひぶせまつり。 ギャラリーでご紹介。
写真はクリックすると大きくなります。 ただし、いまどき珍しくピンボケ。ご勘弁を。

日高火防祭

日高火防祭1

日高祭り2

奥州市水沢区では4月28日(火)~4月29日(祝)にかけて岩手県無形民俗文化財に指定されている、日高火防祭(ひたかひぶせまつり)が開催される。

火防祭の詳細は次のURLを参照してください。

http://www.city.oshu.iwate.jp/kanko/view.rbz?cd=1500

 

 

輝く同窓生たち 第5回ゲスト 白磁器の名工、砥部焼の工藤省治氏

輝く同窓生たち 第5回ゲスト

 白磁器で現代の名工として知られる砥部焼きの工藤省治氏

 

 水沢高校卒業後、愛媛県の砥部で陶芸の道に進み、砥部焼きの「春秋窯」を設立、砥部焼の代名詞的デザインとなっている白磁染付の「唐草文」を考案し、数々の個展や国際デザイン展に出品、白磁器の第一人者として「現代の名工」厚生労働大臣表彰を受けた。

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工藤省治氏インタビュー

 Q(山口光関東地区同窓会会長):

 工藤さんは水沢高校を卒業されてから砥部焼きで有名な愛媛県の砥部に渡り、陶芸の世界に入られたわけですが、その動機、きっかけとはどのようなものだったのでしょうか? 水沢高校時代に影響を受けた先生はいらっしゃいますか?当時、美術を教えておられたのは岩田先生でしたが?

 A(工藤 省治氏)

 水沢での学生時代は専ら絵を描いていました.遊び道具を作ったり、「カタチ」になるものに興味を持っていました。美術教師の岩田先生には,古代美術、近代、現代の美術及び工芸への教へを受けました。その後表現活動への憧れもあり、彫刻や陶磁の「カタチ」への想いは、先生の博学の指導が進む道の規範になったと思っています。

 Q: 砥部焼きの梅野製陶所に入られたころの思い出についてお話いただけますか?砥部焼の代名詞的デザインとなっている白磁染付の「唐草文」は、戦後の産地再生の取り組みの中で当時梅山窯の陶工だった工藤さんによって考案されたといわれておりますが、当時の様子や、「唐草文」のデザインを考案されるまでのご苦労などについてお聞かせください。

 A(工藤 省治氏)

 1970年代に東洋陶磁の中で、ペルシア陶器の「唐草」をイランの博物館でスケッし、変化させながら生まれてきた文様です。企業デザイナーはその文様を描ける職人を育てることを怠ってはだめで、私自身の技術への挑戦と表現力を維持しなければならないのです。無言のうちに東洋の一角で美学への普遍性を保たねばと思っています。

 Q:1960年代に現代陶芸作家として活躍を始められ、1970年代に入って国際的なデザインコンペティションなどにも出品され、砥部で陶磁器研究工房の「春秋窯」を設立、白磁器の作り手としての世界を確立されました。地域の陶芸産業とデザインの関係など、そのころのことを聞かせてください。

 A(工藤 省治氏)

 日本のデザイン運動は,昭和30年代の始めに東京の丸善クラフト・センター・ジャパンという組織が発足しました。国は工芸デザインの指導者の地域産業への啓蒙運動に動きだし、私も賛同して手仕事への影響を受けました。私のデザインした器が少しづつ,世の中に出始め、商品価値のある「モノ」になってきました。 「ものまね」ではなく、「オリジナル」文様が必要条件になり、それに執着した時代があり、現在も土着性のある器作りをして居ります。

 Q:欧州諸国や北欧、中国、インド、韓国などに足を伸ばされ、陶磁器のデザインの視察をされていますが、ヨーロッパや中国、韓国などと比べて日本の陶芸のデザインの独自性や特色とはどのようなものでしょうか?

 A(工藤 省治氏)

 1980年代に北欧3国で,世界デザイン会議があり、1か月程滞在した際、陶磁器デザイナー及び各職種の意見を聞き,国のデザインを決めるということに共感しました。中国は古来伝統そのままにの生産をし、韓国では,新しいデザインの流れが始まっているようです。

 日本では個人作家、現代風の表現になり、企業デザインは人材育成をしながら、独自性をだそうとしていますが、大変な作業になっています。私は100ほどある窯との勉強会には「オープン」にして,デザイン、陶画などの教室を開いています。その中では窯主も次第に個性ある器を作り始めています。

 Q:最後に郷里、水沢が育んだものとは何ですか?高校生時代の思い出をもう少し教えてください。そして今、水沢高校の生徒たちに最も伝えたいこととは何でしょうか?

 A(工藤 省治氏)

 高下駄履いた「バンカラ」学生でした。 私の頃の水高サッカー部は強かったのです。東北大会に出た経験があります。

 教室では国語の先生を困らせたことがあります。もっと「高レベル」な講話をしてくださいと発言した覚えがあります。それは「ダンテの神曲」(の授業)でした。先生からはわからなくても読んでみろといわれました。

 私の学生時代には,古典、明治・大正の書物を読んでいました。特に詩集はたくさん読んでいたのです。

 21世紀の水高生に対する私の願いがあります。

 「活字」を常に手もとに、日本語を勉強してください。「本」を読む学校にしてください。(運動も英語も大事ですが)

 水高の校歌は昭和28年の私どもの卒業の時に「歌い」ました。(実は私の発案で校歌を歌うことが叶ったのです。)

 


 

工藤 省治氏略歴

 

1934年 青森県生

1953年 岩手県立水沢高等学校卒

1957年 砥部焼 梅野精陶所 入所

1963年 東京日本橋丸善 第一回「今日のクラフト展」招待出品

1964年 第1回 丸善クラフトセンター賞 受賞

1965年 「愛媛現代美術家集団」結成に参加 以後継続

1966年 「現代日本新人作家展」招待出品

1972年 イタリア「ファエンツァ国際陶芸展」招待出品

1973年 「国際デザインコンペティション」出品

1974年 陶磁器研究工房「春秋窯」設立

1979年 第5回「日本陶芸展」出品

1981年 第6回「日本陶芸展」出品

1982年 「国際デザイン交流展」(金沢市)招待出品

1984年 「伝統と現代」(モスクワ)招待出品

1988年 「近代日本の陶芸展」(福島県立美術館)招待出品

1989年 第17回 国井喜太郎産業工芸賞 受賞

1992年 伝統産業展 生活産業局長賞 受賞

1997年 「現代日本のセラミックデザイン展」(愛知県陶磁資料館)招待出品

2000年 「現代器考」(東京国立近代美術館工芸館)招待出品

2001年 通商産業大臣 デザイン功労者表彰

2004年 厚生労働大臣表彰(現代の名工) 平成16年度「卓越した技能者」の表彰

2007年 黄綬褒章受賞

2015年3月 愛媛県無形文化財砥部焼技術保持者に認定

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陶芸の世界に入ったきっかけはという問いには、「絵画の世界からこの世界に入ったのは、表現者としての職種である」と語り、どこで陶芸を学んだかという問いには「砥部焼業界の職人達の中で生産に従事しながら学ぶ」と答えている。

作品の特徴は「白磁器」で、今後手がけてみたいこともまた「白磁器」だという。

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窯元名 春秋窯

住所  〒791-2133 愛媛県伊予郡砥部町五本松888

代表者 工藤 省治

「現代砥部焼の原点」 工藤省治の仕事と昭和のデザインプロジェクト の特別展が2014年3月、 松山市堀之内の愛媛県美術館で開催された。砥部焼の代名詞的デザインとなっている白磁染付の「唐草文」は、戦後の産地再生の取り組みの中で当時梅山窯の陶工だった工藤省治氏(砥部町在住)によって考案された。作陶55年を迎えたその足跡をたどると、昭和30年代に砥部焼産地形成のきっかけとなった一大デザインプロジェクトが見えてくる。梅山窯時代の仕事を含む作品約100点を展示。産地産業とデザインの関係を見つめ直し、現代砥部焼の原点に触れる展覧会を開催します」と紹介されている。

     染付唐草文皿

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所属: 日本クラフトデザイン協会、日本陶磁器デザイン協会、日本伝統工芸士会、愛媛陶芸協会、

陶磁器デザイン視察 : ヨーロッパ (1971年) 、中国 (1978年) 北欧(1981年) インド(1989年) 韓国 (2005年)

水沢高校の桜が満開

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水沢高校の桜も満開です。

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輝く同窓生たち 第4回ゲスト 建築家 只野康夫氏

 第4回ゲスト 建築家 只野康夫氏


 

 水沢高校から東京工業大学に学び、建築学科を卒業して日建設計に入る。

1970年大阪万博の日本館設計に参画したのがきっかけで沖縄海洋博、つくば科学万博で日本政府出展館を設計。他にパシフィコ横浜や、博多リバレイン、法政大学多摩キャンパスなど多くを設計するとともに、代表取締役専務等を歴任して2007年同社を退任。水高関東地区同窓会では発足間もないころから役員、2009~2013に会長を務めた。

  只野会長総会写真

水沢高校関東地区同窓会 2013年総会で

水高百周年祝賀会(2010年10月)

水高創立百周年記念祝賀会で。同期の伊藤康道君(右)と

伊藤康道書法芸術展で大賞

2015国際書法芸術展(東京都美術館)で「芸術大賞」を受賞した伊藤康道氏(左)と

 


 <略 歴>

  • 1939年 神奈川県藤沢市辻堂に生まれる
  • 1945年 終戦を機に江刺郡玉里村に移る
  • 1955年 玉里中学校卒業、水沢高等学校入学
  • 1958年 同高等学校卒業(2浪)
  • 1960年 東京工業大学入学
  • 1964年 同大学理工学部建築学科卒業
  • 同年 (株)日建設計工務(現(株)日建設計)入社
  • 1970年 (株)日建ハウジングシステム出向(1972年 復帰)
  • 1987年 設計部長。その後、大阪第二事務所長、取締役東京本社副代表、代表取締役専務執行役員(経営管理担当)、北海道日建設計会長などを歴任して2007年3月退任
  • 同年 <スタジオmanu>を主宰し現在に至る

 

 <公的役職>

  • 1993-1994年 大阪府堺市都市景観アドバイザー
  • 1995-1997年 東京工業大学非常勤講師(建築設計製図)
  • 日本建築家協会、日本建築士連合会、日本建築学会等の諸会委員

 <主な作品>

  • 1965~66年 大妻女子大学増築工事(処女作)。その後、同大学狭山台校舎同大学図書館、大妻記念館などを担当
  • 1967年 1970/大阪万博準備室に参画後、日本館設計チームに入る。その後、1975沖縄海洋博・海洋文化館、1985つくば科学万博・テーマ館を担当
  • 埼玉厚生年金休暇センター、出光興産中央研究所、積水化学工業筑波研究所、京浜急行第1ビル、IHI豊洲センタービル、博多リバレイン(下川端地区第一種市街地再開発事業)、MM21パシフィコ横浜などを担当
  • 工業化工法による高層住宅の開発(SAP)、住友金属十余二住宅(SAP試行建設)などを担当
  •  銀座並木通りリニューアル計画プロデュース

パシフィコ(海側)

パシフィコ横浜全景(国際会議場未着工)

博多(アトリゥム)

博多リバレイン、アトリウムガーデン(5階)の眺め

博多(全景)

博多リバレイン(下川端地区再開発事業)全景

博多(博多川)

博多リバレイン、博多川からの景色


 <著書(共著)>

  • 「日本経済の難問を解く」、「建設人ハンドブック」、「北海道の建築」

 

 <只野康夫氏インタビュー>

 Q(山口光関東地区同窓会会長):

 はじめに、水沢高校から東京工業大学に進まれ、建築を目指した動機とはどのようなものだったのでしょうか? 「輝く同窓生たち」の第2回・第3回ゲストになっていただいた、工藤国雄氏・小野寺武夫氏の思い出話の中に、只野さんのこともでてきますが、当時の水沢高校で出会い、影響を受けた先輩や先生たちのことも含めて教えてください。

 A(只野康夫氏):

 お二人とも私にとってかけ替えのない方々です。私は、生まれは藤沢市辻堂で、先の戦争末期に母の実家・新潟県村上市に一次避難して、ここで玉音放送を聞きました。従兄の家の庭に十数人の大人たちが頭を垂れて並び、縁側に置かれたラジオの雑音混じりの声に聞き入っていたのを覚えています。その後すぐに、父の繋がりがある江刺郡玉里村に移り住んだのですが、家も田畑もないので父母は大変だったようです。周りの方々の配慮だったのでしょう、しばらくして父が中学校の用務員(小使い)の職につくことができて、何とか妹を含む4人家族がやっていけるようになり、終戦翌年の春に私は村立玉里小学校に入学しました。私達の学年は2クラス88名で、皆みすぼらしかったけれど自然に抱かれノホホンと中学へと進みました。

 中学3年になった1952年春に、年上のお兄さんみたいな小野寺先生(第3回ゲストの小野寺武夫氏)が現れたのです。聞けば、東大入試に向けて勉強しながら代用教員として私達に英語と数学を教えて下さるという。目元がやさしく、諭すように教えて下さる先生だったので皆の人気でしたが、授業は厳しくて、例えば英語は2年の教科に戻って基礎からやり直したため3年の教科書は一部未了に終わったほどです。お陰で勉強の基本をたたき込まれる一方で、寸暇を惜しんで勉学に没頭される姿を見て、世の中にはこれほどまでして行こうとする大学があるのか、それには先ず水沢高校に行くのがいいらしいといったことを知りました。それが私の人生の大きな曲がり角でしたが、その方向を示して下さったのが小野寺先生なのです。

 水高時代(w/藤雄くん)

 水高3年生のころ。同期の高橋藤雄君(左)と

  今ではどこの高校でも生徒会長が2年生から選ばれるのは普通のようですが、当時はまだ3年生から選ばれるのが一般的でした。ところが、私が水高に入った1955年は3年生から生徒会長に立つ人がいなくて、急遽2年の工藤くん(第2回ゲストの工藤国雄氏)が立候補してなったのです。しかも、翌年私がそのバトンを受け継ぐことになったこともあって、彼との繋がりができました。(余談ですが、水高の「2年生生徒会長」の慣例はこれがキッカケではないかと思います)

 私が3年の時、工藤くんは入試に失敗して独学していたので相互に問題を出し合ったことがあります。夜中11時ごろに私の下宿先の軒下で前回の採点と次回の問題を交換するのですが、これが二人を緊密にしました。私は「これからの日本は工業が柱になる」と信じ込んでいたので、大学では機械工学を専攻しようと思い、東大理科1類を志望したけれど2度失敗。3度目は許されないと予備校に通って準備していたのですが、最終的には工藤くんの誘いもあって東京工業大学を受けて入学できました。

 東工大では、1年目は教養課程で2学年になる時に専門科目を選ぶことになっていたのですが、その際に機械工学ではなく建築学に変えました。入学して専門分野に「建築学」という存在があることを知ったことと、各学科の様子が実際に見えたことから、自分なりに考え直したのが第一要因ですが、一足先に建築学科に進んでいた工藤くんから得た影響は大きかったと思います。彼は、私にとってそのような存在であり、親友です。

 Q:  東工大時代の学生生活の思い出はどんなものがありますか? 60年安保闘争もあり、激動の日本の1960年代前半。1964年の卒業のころに、ちょうど東京オリンピックがありましたが。

 A(只野康夫氏):

 当時、東工大には学生寮制度があって、私は入学から卒業まで寮に入ることができました。粗末な建物と食事(2食)でしたが、少ない費用で安心して住み食べられたのは幸せでした。日本育英会と水高育英会の奨学金が貰えた上に、父が1年ほど前に病死して寡婦家族だったこともあって1学年後期からの授業料が免除されたので、家庭教師などのアルバイトをすれば仕送り無しでやれました。

 1年目の寮には学生運動に熱心な先輩がいたので、安保反対運動に感化されて何度もデモに行ったものです。樺美智子さんが亡くなった時も国会議事堂の周辺にいましたが、その事実を知ったのは翌日の新聞でした。当時の首相は岸信介ですが、その孫が現首相なのに因縁みたいなものを感じます。

 私が建築学科に入る頃から、日本の経済成長が具体的な形になってきました。1958年の東京タワー完成、1964年の東海道新幹線開通そして東京オリンピック等がそれですが、それはその後に続く「右肩上がり」の始まりでした。

 Q: 卒業後、日建設計に入社され、建築設計の道をずっと歩まれましたが、建築の設計の仕事にはさまざまご苦労も伴ったと思います。沖縄海洋博覧会の海洋文化館の設計などの思い出もお話いただければ幸いです。

 A(只野康夫氏):

 日建設計といっても一般にはあまり知られていないと思いますが、建築設計・都市計画など社会環境全般に関わる企画・設計・コンサルティングを専門とする総合的専門家組織です。前項にあげた東京タワーもそうですが、2012年完成のスカイツリー、水沢高校の西南にある県立胆沢病院もここの設計です。現在の社員数は1,700人余りですが、私が入った当時は大阪・東京・名古屋全体で300人程度だったと思います。

 東京オリンピックの余韻が残る1970年に大阪万博が開催されるのですが、その2年ほど前から日本政府出展日本館の企画・設計チームが発足し、入社4年目の私もメンバーに加わりました。このプロジェクトは、組織や建築の枠から飛び出た発想や人材に接するうえで、また世界に目を向ける意味でとてもいい機会だったと思います。そのときの政府側として検討をリードする通産省職員がいたのですが、「大阪万博」は同氏の東大卒業論文「日本経済の楕円構造(只野コメント:東京・大阪の2つを日本経済の核にする)」から発想されたと聞いて驚きました。それが、後に退官して作家等さまざまな分野で活躍されている堺屋太一さんです。

 1972年の沖縄本土復帰を記念して、3年後に沖縄海洋博が開かれることになり、私は大阪万博の実績から、政府出展海洋文化館の設計を担当することになりました。地元沖縄の建築家との協働で、アメリカ色が色濃く残る社会を体験しながら、はまばゆい陽光のもと、地元の人たちが時に見せる深い陰を感じながらのプロジェクトでした。当時一緒にやった沖縄の建築家は、いまでも親しい友人です。

 Q: MM21パシフィコ横浜の国際会議場や展示場、コンベンションセンターなどの設計は新しい発想で取り組まれたのだと思います。私も、2002年FIFAワールドカップを日韓共催で開催したときに、メインプレスセンターがおかれたパシフィコ横浜で、世界のメディア取材陣を相手に記者会見をした思い出がありますが、ホテルも含めて非常に使いやすい大規模な複合コンベンションセンターでした。ワールドカップはあの施設がなければ開催は難しかったと思います。思い出などを教えて下さい。

 A(只野康夫氏):

 1980年代に、人・物・情報の交流を都市経営の柱に据える気運が高まり、コンベンションセンター(国際会議場・展示場・ホテルの3機能を有する複合施設)建設が世界の主要都市で進められました。日本では「幕張メッセ」、有明の「ビッグサイト」、そしてこの「パシフィコ横浜」が代表的ですが、3機能すべてを備えているのはここだけです。横浜市が、この地に国立の国際会議場誘致の活動を始める段階(1985年)から関与して、完成の1994年まで10年を要しました。途中からバブルが発生して工事費が暴騰する、我が国初の日米建設合意による設計共同となり多くの海外建築家、デザイナーとの協働となる、国・市・第三セクターの複合事業で総工事費が1,000億に近いなど、さまざまな要素・課題が錯綜するプロジェクトでした。

 パシフィコ(海側)

パシフィコ横浜全景(国際会議場未着工)

パシフィコ(断面図)

パシフィコ横浜、ホテル断面図

 パシフィコ(陸側)

パシフィコ横浜、陸側からの景色(国際会議場未着工)

 Q: 東日本大震災と津波、福島第一原発事故などの3・11を経験した日本で、あるべき建築のあり方とは? 20世紀型の、箱物志向ではなく21世紀の日本では地域共同体、共生のための人々の暮らしに意味をもつような建築が求められていると思いますが、2020年の東京オリンピックに向けてどのような建築があるべきなのでしょうか?国立競技場の建て替え問題なども含め、ご意見をお聞かせください。

 A(只野康夫氏):

  自然災害は日本の宿命です。これに対しては、人間の智慧や工夫である程度は対策できるので、その努力は必須です。しかし、工学や技術は基本的に経験に基づくもので、将来に渡って絶対安全はあり得ないから、それに対する配慮を忘れてはいけないと思います。一方、原発は人災です。人間が作るものに完全はあり得ないので、万一の時に間違いなく対応できる範囲で利用する謙虚さが必要だと思います。原発はその意味で作ってはならないものだと思います。

   私が玉里に居たころ、寿命100年以上の茅葺屋根の家が至るところにありました。黒光りする太い柱や梁は人間の営みを越えた命を持っていましたが、最近の木造住宅は30年もすれば評価ゼロです。私の目指す先を、「家」でいえば、前者を基本に省エネと更新システムを加えた、持続可能で長寿命な家です。

 2020年オリンピックは、東京と競ったイスタンブールになればいいと思っていました。安心できる祭典にするため、つまり係争・戦争を止めようと、世界中の熱意と努力が注がれると思ったからです。一方、東京ではかつてのように経済優先になるだけではないかと思いました。ザハの新国立競技場案にはそんな雰囲気を感じます。

 Q: 最初の問いにも含まれていますが、改めて、水沢高校在学当時、只野さんに影響を与えた先生はどんな人たちですか? 思い出に残る先生がいらっしゃいますか? またその当時の水高の雰囲気はどんなものだったのでしょうか?

 A(只野康夫氏):

  真っ先にあげたいのがタイガーさん(小野寺弘先生)です。日本史の先生ですが、生徒会はじめ私たち生徒の活動全般に目を配って、よくガミガミ怒るので付いたあだ名でしたが、こころ根はとても優しい先生でした。私が玉里中学で小野寺武夫さんの教え子だったこともあったかと思うのですが、個人的にも並々ならぬお世話になりました。

  先輩たちが尊敬して止まない英語の先生に阿部庄さん(阿部庄一郎先生)という方がおられたのですが、胸を患い長いこと入院され学校には出ておられなかったので、私達には雲の上の存在でした。3年の始まりだったと思うけれど、タイガーさんがその阿部庄さんの病室に行って個人授業を受ける手配をして下さったのです。病室のベッドに座って、仙人のような阿部庄先生の口から発する一言一句がとても新鮮で重かったことを思い出します。

 タイガーさんの飲み仲間・カッパ(高力さんこと高橋力先生)、物理のビヤダル(菅原清徳先生)等々面白くて個性のある先生が多くおられて、しかもこうしたあだ名が大っぴらに通る清々しい学校でした。

 そうそう第2回ゲスト・工藤くんの回想に牟岐さん(牟岐喆雄校長)のことがあったので、私の記憶もお話ししましょう。牟岐さんが校長として来られたのは、私が2年、工藤くんが3年になった1956年4月。「大物」との前評判だったけれど、どちらかといえば地味な雰囲気の先生だったので何となく拍子抜けしていたところ、しばらくして音楽室で事件が起きた。音楽好きの男子生徒が昼休みに無断でピアノを弾いていたところ音楽の先生に捕まって、教員室に連れて行こうとする先生とそれを避けたい生徒でいざこざになったのです。

 当時、小・中学校にオルガンはあってもピアノまであるところはほとんどない時代。水高でもピアノはこれ1台しかなかったと思うので、大事にしている音楽教師の気持ちは分かる。一方、ピアノを弾いてみたいという生徒の熱い思いもまた分からない訳ではない。その場にいた生徒が、4月に生徒会長になったばかりの私を呼びに来たので駆けつけたものの見守るしかない。そこに牟岐さんが来た。音楽の先生は「大事なピアノを無断で使うなんて許せない。壊れたら大変です!」と強く訴える。それを聞いた牟岐さんは静かに言ったのです。「壊れたら直せばいい。それほど使ってもらったらピアノも本望でしょう」と。・・・私はこの言葉で牟岐さんの大きさを知りました。皆も同じだったでしょう。またたく間に牟岐さんは全校の尊敬の的になりました。ところが、それから間もなくその牟岐さんが急に県の「教育長」に抜擢されて盛岡に行くことになってしまった。私達生徒は大ショックで、急遽、前・現生徒会長の工藤くんと私が生徒代表として県庁に「取り消し要請」に行ったけれど、ダメでした。

 Q: 水高関東地区同窓会会長を経験され、首都圏での同窓会の活動と運営にご尽力されてこられましたが、関東地区同窓会の活動開始の経緯や当時の思い出話、御苦労などについてもお聞きしたいと思います。

 A(只野康夫氏):

 大学を出てしばらくして小野寺先生(小野寺武夫氏)から、関東地区にいる水高卒業生の集まりを開くので手伝えとの連絡がありました。社会人になって前のめりの時期だったので、正直言って気が重かったけれど、敬愛する方の言葉なので渋々参加したのがきっかけです。「これも世話になった水高への恩返しだよ。」・・・それとなくぽつりと漏らされた一言が、私の根底を見透かすように胸に刺さりました。

 1976年設立初期は初代会長の及川孝夫さん(1951年卒)がリードしていましたが、1983年第4回総会のころからは小野スミ子会長(1950年卒)と運営委員長の2頭立てになって、この役を長いこと八幡和三郎さん(1953年卒)がなさいました。この世代に今の関東地区同窓会の骨格が築かれ、同窓会本部との連携も確立しました。

 私が、八幡さんからそのバトンを受けたのは2006年からで、また会長を仰せつかったのが2009年ですが、ここで意識したのは、同窓会運営を組織的に進める、ホームページをつくるなどして会員により開いた会にする、同窓会本部との連携をもっと強くする等でした。まだ不十分だったり、残された課題もありそうですが、これは現会長である山口さん方若い世代にお任せして2013年度総会をもって会長を退きました。

 ついでですが、第3回~第14回総会までは経団連会館で開催されました。これは佐々木美智男さん(1953年卒)が経団連に勤めておられたからでしたが、実はこの建物は日建設計の設計・監理で、その設計に新入社員の私も加わっていたのです。ある総会後の懇親会で、美智男さんがそのことを皆さんに紹介して下さって、嬉し恥ずかしい思いをしたことがあります。(なお、当時の建物はもう解体され、新経団連会館は別のところに建っています。)

 Q: 最後に、郷里、水沢が育んだものとはどんなものですか? また水高の高校生たちに最も伝えたいことは何ですか?

 A(只野康夫氏):

 玉里で育ったことを、この上ない幸せだと思っています。四周を山で囲まれ、真ん中を人首川(ひとかべがわ)が流れる小さな山村ですが、自然いっぱいで、これに日常の生活が溶け込んでいました。日々の生活と歴史がつながっていました。親戚はじめとする村人の皆さんはとても優しく親切だった。ひたすら感謝あるのみです。

 ただ、最近たまに行って驚くことがあります。子どもの姿が少ないのです。はじめにも言ったように、私が小学校のときは同級生は88人もいましたが、今は玉里地区で10人に満たないようで、正に過疎化の波が押し寄せているのです。

 水高については既にお話したので、たまたま「創立100周年記念誌/飛龍二世紀」を見て気づいたことを話しましょう。同誌108・109頁に「みずこう五号巻頭言(1954年3月)」と「生徒会臨時総会 決議文(1953年12月)」が紹介されています。ともに当時生徒会長だった私が書いたもので、前半は「学園には緑の空気がみなぎっている」、「自由に自主的に積極的に思案し、活動するということは、私達の学校の善き校風であり、伝統であり」と、水高の誇らしい点をあげていますが、後半で「如何に追求すべきかを誤ってはならない」とか、「いささかの非難をも受けることのないよう」と自制を求めています。これは、当時2年と3年の血気果敢なグループ間で反目があって一触即発の状態だったので、それを必死に止めようという側面があったのです。結果的に何事もなく済みましたが、何年もして社会人になって集まった同期会で、当時のリーダーが「やると君が困るだろうと思ってさ」と話してくれました。私はこれを聞いて、母校水沢高校に自治の精神が生きていたことを実感し、そこで育ったことを誇りにおもいました。

 水高に学ぶ皆さんがこのような素晴らしいインキュベーター(保育器・孵卵器)で育ちつつあることは幸せだと思います。ここから、私の場合は日本でしたが、皆さんはグローバル世界に思いきり飛び出してほしいと思います。

 了

 

伊藤康道氏(第10回生)が2015 国際書法芸術展で芸術大賞を受賞

国際書法芸術協会が主催する第48回 2015 国際書法芸術展(東京都美術館で平成27年4月1日から5日まで開催)で水沢高校同窓生、伊藤康道氏(第10回生1958年卒、前関東地区同窓会副会長)の作品が芸術大賞を受賞した。


 

写真は2015国際書法芸術展(東京都美術館)で「芸術大賞」を受賞した伊藤康道氏(左)と只野康夫氏(右=前水沢高校関東地区同窓会会長)
写真は2015国際書法芸術展(東京都美術館)で「芸術大賞」を受賞した伊藤康道氏(左)と只野康夫氏(右=前水沢高校関東地区同窓会会長)

喧噪の都エジプト・カイロの水高同窓会

 

喧噪の都エジプト・カイロの水高同窓会

及川仁さん(1980年卒)と北田智恵美さん(1991年卒)


    終日鳴り止まぬ自動車のクラクション。未明まで派手なイルミネーションを光らせ、ベリーダンス音楽を大音量でまき散らすナイル川の観光船。1日5回、早朝から夜まで街中のモスクのスピーカーから大音量で響きわたるアザーン(礼拝の呼び掛け)の朗唱。頭の上に山盛りのパンの大皿を乗せた人々が自転車で行き交う早朝の街角―。

「中東で一番騒がしい都市」(地元メディア)とも形容されるエジプトの首都カイロに、5年前まで水沢高校同窓会が存在していた。会員は国際協力機構(JICA)カイロ事務所に勤務していた北田智恵美さん(1991年卒)と共同通信カイロ支局長として勤務していた筆者、及川仁(1980年卒)の2人である。

レバノン戦場メシ

「レバノン戦場メシ」 レバノンの民兵組織ヒズボラとイスラエル軍の戦闘停止発効を受け、同軍の激しい攻撃が続いたレバノン南部ティールでの取材を終え、宿泊先でカメラマン宮嶋茂樹さん(左)、ジャーナリスト綿井健陽さん(右)と夕食を囲む筆者(中央)=2006年8月15日撮影

 北田さんが滞在していたのが2007年3月から10年3月までの3年間、筆者が滞在していたのが06年7月から10年1月までの約3年半だったのだが、お互いが同窓生と気付いて〝活動〟を開始したのが07年春ごろだったので、「カイロ水高同窓会」の活動期間はおおむね2年10カ月ぐらいだったことになる。

  JICAは日本政府が行うODA(政府開発援助)、つまり途上国支援を実施する機関。北田さんはそのカイロ事務所の勤務ではあったが、主に担当していたのはエジプトそのものへの支援というよりは中東、北アフリカの地域大国であるエジプト政府と連携しながらのサブサハラ・アフリカ諸国への支援だった。サブサハラとはサハラ砂漠以南のアフリカ諸国が対象地域で、具体的にはタンザニアやエチオピア、ケニア、ガーナ、アンゴラ、ガボンなどへの農業、かんがい、保健医療など〝BASIC HUMAN NEEDS〟と呼ばれる分野での技術移転を通じた援助だという。

アフリカ大陸北東の端に位置するカイロを拠点に、北田さんはこの大陸全体を支援のために奔走していた。これらの国々はエイズなどの感染症による死亡率が非常に高い地域だ。「日本人であれば食事の前に手を洗うという行為が日常化していて、これにより多くの感染症を未然に防ぐことができるのですが、国による慣習の違いもあり、洗うのは食事の後、という人が相当います。手洗いやごみの分別など簡単なことをするだけで感染症は相当防げるのですが…」と北田さんは話す。

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写真はアフリカの農業研修員とカイロ市内のエジプト農業省庁舎でツーショットに収まる北田智恵美さん=2008年1月16日撮影

これら生活習慣の異なる地域での仕事は粘り強い地元の人々との対話や、自分自身への健康への配慮など、心身ともに苦労も多かったはずだが、北田さんはいつ会っても元気で明るかった。

 筆者は中東・北アフリカを担当する記者として、1カ月のうち3分の1から半分は出張という生活。イラクやシリア、レバノン、ヨルダン、トルコ、イラン、イスラエル、サウジアラビア、アラブ首長国連邦(UAE)、クウェート、バーレーン、カタール、リビア、時には担当地域を越えたサブサハラのエチオピアやナミビアなど、あちこちを取材で駆け回った。

とりわけフセイン政権崩壊後の内戦状態が続いていたイラク、イスラエル軍とイスラム原理主義組織ハマスの戦闘が続くパレスチナ自治区ガザ、同じくイスラエルと戦闘を続けるイスラム教シーア派民兵組織ヒズボラが拠点としていたレバノンなど、こうした地域では砲撃や空爆が行われていない場所を選び、自分自身が標的にならないよう慎重に行動しなければならない。一方で中東は原油や天然ガスなど日本が依存するエネルギーのほとんどを抱えており、この地域の情勢を日本に伝えることは重要だ。多様な社会、民族、文化をあれこれ切り取って伝える仕事はしんどいことも多かったが、それを上回る面白さがあった。

 そんな会員2人が同時期にカイロにいることはむしろまれ。しかし、何かと機会を見つけては、家族のいる筆者のアパートに北田さんをお招きしての〝総会〟をしばしば開催していた。いまさら後悔しても仕方がないが、そんな「カイロ水高同窓会」が存在していた当時にもっとリアルタイムの活動報告をしておくべきだったと反省しきりである。

 チュニジアを発端とした「アラブの春」がエジプトに波及、カイロから全土に反政府デモが拡大し、ムバラク独裁政権が倒れたのは筆者、そして北田さんが相次いでカイロを去った翌年の2月になる。ジャーナリストとしての筆者にとっては、歴史的政変に立ち会えなかったことに少し残念な気持ちもあるものの、「アラブの春」で生じた混乱に乗ずる形で勢力を拡大した過激派組織「イスラム国」が、エジプトを含む中東全体の治安に暗い影を落としている現在、カイロ水高同窓会が活動できたあのころはやはりいい時期だったのだろうとも思う。

 現在は北田さんも筆者も東京の勤務。この原稿の取材を口実に久しぶりの〝総会〟を都内の北アフリカ料理店で開催、積もる思い出話で盛り上がったのは言うまでもない。カイロ以外でも1995年から1年数カ月駐在したベオグラードでも当時の在ユーゴスラビア日本大使館医務官の奥さんが同じく水高の後輩ということもあった。

 

いまや北米や欧州だけでなく、地球上のあらゆる意外な場所に水高同窓会が広がっている。途上国の格差拡大につながるなどの批判もあるグローバル化だが、水高同窓会のグローバル化はうれしい限り。世界各地の隠れた水高同窓会には、筆者のようにタイミングを逃すことなく、ぜひ現在進行形の同窓会報を寄せてほしい。

(1980年卒・及川仁)

 

水沢・斉藤実記念館での企画展

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<輝く同窓生たち>第3回ゲスト 元雪印食品社長 小野寺武夫氏

 第3回ゲスト 元雪印食品社長 小野寺武夫氏

 水沢高校から東京大学農学部農芸化学科卒業。雪印乳業(株)に入社し、同社から米コーネル大学大学院に留学、修士号を取得。雪印乳業常務、同社専務取締役の後、雪印食品(株)社長を歴任。翻訳書にマイケル・ポーターの「競争優位の戦略」(上下)「グローバル企業の競争戦略」(ダイヤモンド社)がある。   


小野寺武夫氏68歳のころ

 雪印食品社長時代

退職を目前にしたころの現役最後の写真

(68歳のころ)

 

小野寺武夫氏コーネル大学のジャーマン教授と

コーネル大学のジャーマン教授が来日した際に撮影

2人は1933年生まれで同年齢

(退職後の写真、70歳ころ)


翻訳書:

競争優位の戦略上

 

国の競争優位下

 

グローバル企業の競争戦略

 


  略歴:

 1933年  岩手県胆沢郡小山村に生まれる(現奥州市胆沢区小山)

1952年  岩手県立水沢高校を卒業、東大受験に失敗

       このあと2年間、働きながら受験勉強(浪人生活ではありません)

1954年  東京大学教養学部理科Ⅱ類に入学(高校卒業後2年かかりました)

1956年   同上  農学部農芸化学科に進学

1958年   同上  卒業、雪印乳業に入社

1968年~1970年 米国コーネル大学大学院で農業経済学を専攻,修士号取得

1989年    雪印乳業取締役

1991年   同 常務

1995年   同 専務

1997年   雪印食品 社長

2001年   同 退職 (43年間会社勤めをやりました)

  


 <小野寺武夫氏インタビュー>

 Q(山口光関東地区同窓会会長):

はじめに、水沢高校在学当時、小野寺さんに影響を与えた先生はどんな人ですか。

 A(小野寺武夫氏): 

私の生家は米作農家でした。ご承知のように米作は春に田植えをして秋には収穫を迎え、その米を売って1年の一家の生活費に当てるわけです。そのわずかな収入のなかから子供を都会の大学へ進学させることは考えられない事でした。私も高校の学費はなんとか出して貰えましたが大学への進学は考えてもみませんでした。在学中はもっぱら生徒会長をやったり、部活に熱中する毎日で大学受験の為の勉強はやってませんでした。

 ところが高校3年の秋に教頭の後藤五郎先生に呼ばれて、君の成績なら東大進学も夢ではない。金がないなら学校のほうで奨学金を用意するから、ぜひ東大を受験しなさいと言うことでした。寝耳に水とはこの事です。大学受験など考えても居なかったのでなんの準備もしていませんでしたが兎に角、次の春に東大を受験することにしました

 もちろん結果は落第でした。卒業後は働きながら受験勉強を続け2年目にやっと東大に入学することが出来ました。高校では約束たがわず奨学金を支給してくれましたので、大日本育英会の奨資金とあわせるとなんとか生活費を確保することが出来ました。

 社会人になってからは会社の費用で米国のコーネル大学大学院で勉強し修士号をとることが出来ました。

 無一文の高校生が東大、コーネル大学大学院と勉強を続けることができたのは後藤先生が背中を押してくれたお蔭と今更ながら感謝しています。

 話は変わりますが受験勉強の最後の一年は江刺の玉里中学校代用教員として英語と数学を教えました。そのときの教え子に只野康夫君という非常に優秀な生徒がいました。彼は水高卒業のあと東京工大で建築設計を学び卒業後は設計技師として数々の名建築を世に送りました。最近まで水沢高校同窓会の関東支部長として活躍していましたから知る人ぞ知る有為な人材です。

 水高にはもう一人忘れられない先生がいました。岩淵(卓郎?)先生という生物の先生です。先生は植物学に造詣が深く周りにある植物の名前は全部知っていました。休みの日になると我々生物班の生徒を引き連れて山野を駆け巡り植物の名前を一つ一つ教えて呉れました。この時から私は植物学のとりこになって今でも山野をさまよって植物の観察を続けています。私の人生に大きな影響を与えてくれた人物の一人です。

 Q: 水沢高校から東京大学農学部に進まれ、農芸化学を専攻された動機とはどのようなものだったのでしょうか?

 A:( 小野寺武夫氏)

 東大の農学部にはいくつかの学科がありますが、その任務は主として農業分野の技術官僚の養成です。その中で唯一民間企業の技術者を養成するところが農芸化学科です。私は官僚になる積りはありませんでしたから農芸化学科をえらびました。生物学と工学を結び付けて食品や酒類の製造に応用しようとする学問です。私は本来生物学が得意でしたから農芸化学科は私に打って付けの学科でした。

 Q: 東大農学部時代の学生生活の思い出はどんなものがありますか?

 A:( 小野寺武夫氏)

私が在学した昭和30年代は高度成長時代の始まりで技術者の求人は引っ張りだこでしたから就職活動を気にせずのびのびと勉強に専念できました。物作りはすきな道でしたから本当にのめりこんで勉強できた幸せな2年間でした。

 勉強のかたわら課外活動として東大5月祭の農学部実行委員長をやったり、穂積五一先生の主宰されるアジア学生友好協会の副会長をやったりもしました。穂積先生は生涯を通じて私に強い影響を与えてくれましたが、話せば長くなりますので他の機会にお話しさせて頂きたいと思います。

 Q:卒業後、雪印乳業に入社され、乳業にかかわるビジネスの道をずっと歩まれましたが、その仕事にはさまざまご苦労も伴ったと思います。雪印乳業に入られた動機や、ビジネスマンとしての思い出などを教えて下さい。

 A(小野寺武夫氏):

冒頭にお話ししましたように日本の稲作農家の大部分は一年一作で、年に一回しか現金収入が無いわけです。酪農業は牛乳を搾って会社に出荷すれば毎月一回の現金収入があります。そこで政府は酪農振興を大いに奨励しました。私も酪農振興の一環を担うために卒業後は迷いなく乳業会社に就職しました。

当時、高度成長期にあって牛乳・乳製品の需要は生産が間に合わない程のびました。作れば売れる時代が長く続きました。仕事の上で何の苦労もありませんでした。しかし1970年代後半になると、牛乳の需要が頭打ちになって生産過剰になりました。新製品を作ったり、新規事業に進出したりして、会社はなんとか成長を維持しました。こういう時代こそ腕の見せ所です。私も新製品開発や新規事業立ち上げに力を尽くしました。苦労といえば苦労でしたが働き甲斐のある時代でした。

しかし再び情勢が逆転して日本の酪農は生産不足に見舞われています。高齢化の為に労働のきつい酪農を止める酪農家が増えたせいです。これからは如何にして需要に見合った原料乳を確保するかが課題になります。また一苦労です。

 Q:1970年に米コーネル大学大学院に留学され、経営学を専攻されていますが、当時の米国滞在の思い出、心に残るエピソードなどがありましたら教えて下さい。

また乳製品ビジネスにかかわる中で、米欧との競争にさらされたご経験が深いと思われますが、マイケル・ポーターの「競争優位の戦略」や「グローバル企業の競争戦略」の翻訳をなさった経験も含めて当時の日米関係を振り返ってどのような感慨がありますか?

 A(小野寺武夫氏):

コーネルの大学院には世界各地から留学生が大勢集まって来ていました。殆どの学生が大学から奨学金を貰っていました。彼らの大部分は学位を取ると大学に残ってさらに研究を続けるか、米国の一流企業に就職します。故国に帰らずにいずれかの形で米国で生活する道を選びます。かくて米国には優秀な人材が蓄積されます。

 日本では海外留学生は日本で就職がむずかしいので卒業後大概は帰国します。日米のこの違いは強く印象に残っています。40年前に私が居たころコーネル大学にはノーベル賞受賞者がすでに40人以上もいました。いまではもっといるでしょう。世界中から優秀な人材を集めた結果です。

 印象深かった事は沢山ありますがもう一つ挙げると教育の仕方がすごく実務的なことです。経営学のコースをとるといきなり一人1000ドルの枠を与えられ株の売買をやらされました。一学期内に4回以上の売買をして儲けを競うわけです。損益の結果は学期末に公表されます。ウォールストリート・ジャーナルの定期購読も義務付けられました。日本なら日経を定期購読するようなものです。新聞を毎日読んでいるうちに自然とアメリカの経済の動きがわかるようになりました。価格形成論を受講するとシカゴの穀物相場の売買が義務ずけられます。

 最後に留学した事の個人的メリットは、運転免許を取得できたこと、コンピューターをつかえるようになったこと、英語の読み書きが少しは出来るようになったことなどです。これらはいずれも帰国後の生活に大いに役立ちました。ポーターの「競争優位の戦略」などを含めて30歳代から40歳代にかけて12冊の翻訳書を世にしましたのもその一つです。

 Q:TPP交渉が大詰めになる中で、日本の農業の将来がどうなるか、その競争力をどうつけるかなどが焦点になっています。乳製品の自由化問題も含めて日本、特に東日本大震災や福島第一原発事故の後の東北の農業再生の課題など、お考えをお聞かせいただければ幸いです。

 A:(小野寺武夫氏)

極めて広範なご質問ですが私の専門分野の乳製品についてまずお答えしましょう。

 今乳製品の輸出余力のある国は世界中でニュージーランドとオーストラリアだけです。アメリカや中国は輸入大国です。ヨーロッパの国々は少量の輸出をしてますが、自国で余った分を他国に少し売っているだけで輸出国には入りません。

日本の酪農の担い手は高齢化のため廃業者が多くなり、反面若手の新規参入がそれを補っていません。従って日本の原料乳生産量は減少の一途をたどり需要に追い付いていません。日本は乳製品の輸入国なのです。つい先日もバターが店頭から消えて大騒ぎになりました。これからは中国やアメリカと競争しながらどうやって外国から必要量を確保するかが課題です。その前に輸入に頼らず国産原料乳を増産することが必要です。

 国産乳を増産するには若者たちを如何にしてこの仕事に参入させるかが第一の問題です。

交代で休みが取れるような働く仕組み作り、すなわち協業化、あるいは法人化が必要でしょう。すでにいくつかの試みがなされているようです。大型化、法人化のコストを賄うためには画期的な生産コスト削減が必要です。これもニュウジーランドなどに成功例がありますからこの方法を導入すればよいでしょう。私は乳業界の将来を悲観していません。外国製品に席巻されることは考えにくいことです。

 TPP交渉で米国が強硬な分野は牛肉と豚肉です。我が国もかなりの譲歩を迫られています。しかし米国が本当に狙っているのは中国市場ですから,対日輸出問題もなんとか妥協するでしょう。

原発被害の問題は軽々しく論議できませんが、被害のなかった地域への集団移住なども解決策のひとつではないでしょうか。集団移住は明治以来、日本人はなんども経験しています。

 

Q:最初の問いにも含まれていますが、改めて、水沢高校在学当時、小野寺さんに影響を与えた先生はどんな人たちですか?思い出に残る先生がいらっしゃいますか?またその当時の水高の雰囲気はどんなものだったのでしょうか?

 A:( 小野寺武夫氏)

冒頭に申し上げましたが、後藤先生と岩淵先生が真っ先にあげられます。私の一生を決定した方々です。それから担任の佐々木菊郎先生もよく思い出されます。私が病気で学校を休んで居るときに家までお見舞いに来てくださいました。生物の先生でしたが生きた鶏の捌きかたを教えて下さったことがあり後々大変役立ちました。家で鶏を飼っていましたから鶏の始末はそれ以後私の担当になりました。

 水高の前身は県立水沢中学校です。終戦の翌年に創立され我々は第一回の入学生でした。翌年に学制改革があり義務教育制の新制中学が各市町村にできたため県立中学には第二期入学生がありませんでした。我々に下級生ができたのは高校2年になってからでした。下級生を持つことがちょっぴり嬉しく感じたものです。水中は生徒の自主性を尊重していて学期末試験は全て無監督でした。高校になってからも生徒の自主性が尊重され自由な雰囲気でした。

 Q:最後に、郷里、水沢が育んだものとはどんなものですか?また水高の高校生たちに最も伝えたいことは何ですか?

 

A(小野寺武夫氏):

「ふるさとは遠くにありて思うもの」とうたった歌人が居ましたが、私にとっては故郷と近くで接するのが好きです。植物採集をしながら駆け巡った山野は楽しい思い出です。どんな苦しい時でも故郷に帰ると癒される思いです。

  高校生諸君に伝えたい事は「あきらめるな」ということです。高校生の頃はお金がなくて北海道の修学旅行にも参加出来なかった私が、あきらめず頑張ったお蔭で東大に進学でき、修学旅行に行けなかった北海道の会社に入って思い切り北海道を満喫しました。またアメリカの大学院に留学して最高の教育をうけることも出来ましたし、仕事の関係で欧米・アジア諸国20ヶ国に40回以上も出張し広く海外事情を知ることが出来ました。東大進学が私の人生を大きく変えたのです。あの時「あきらめないで2年間頑張ってよかったなあ」とつくづく感じます。

(了)