盛岡にかかる虹(060712)
コメント 今朝(12日7時頃)盛岡にきれいな虹がかかりました。同窓のY氏より早速届きました。開運橋の南にある古来方橋から盛岡駅方面を臨んでいます。こんなきれいな虹はめったにない。岩手日報にも掲載されているようです。 2006/07/12(水) 23:04 |
金色堂(060630)
コメント 五月雨のふりのこしてや光堂 松尾芭蕉の「奥の細道」は有名ですが、実際芭蕉がいつ頃平泉を訪れたかご存知でしょうか。 旧暦の5月12日と記録に残っています。新暦に当てはめると6月29日、まさに今頃訪れたのですね。「奥の細道」の最大の山場は鬱陶しい季節だったわけです。そこをスルーしないところが蕉風俳諧の白眉、実際はそうではなかったといいますが、その後山形に向かう途中で詠んだ「のみしらみ・・・」は尿前の関にかけて、しゃれています。 一方、現実世界では広域合併からはずれた平泉の分捕り合戦を奥州市と一関市で演じられているようです。奥州市は平泉を合併して、人口の減少を補い、市名を「奥州平泉市」に変更することを目論んでいます。一関市は一度平泉市でまとまりかけたところが、地域のエゴがぶつかり合い、合併が破綻した経緯があります。それでしばらくは動けない。そのため奥州市の一方的策動が目立つ形になっています。 しかし、これは金ヶ崎町が北上市と合併する以上に無理があります。郡はもともと東磐井郡ですあい、人、モノ、金すべて一関との結びつきが堅固です。平泉から水高に進学して来る生徒は江刺の郡部に比べて圧倒的に近いのにほとんどいないということで説明がつくでしょう。 2006/07/01(土) 09:00 |
北上夜曲の碑(060625)
コメント 綾瀬川氏から送られてきました。小谷木橋のたもとの水沢ゴルフ場の一角にある「北上夜曲」の石碑です。 水高のOBでさえ、北上夜曲は北上市の曲と思っている人がいるようですので、この際ですから簡単に説明します。作詞の安東睦夫氏は種市(現洋野町)出身の八戸中生で、水沢農学校の配属将校の叔父を訪ねてきて、叔父の下宿先で同宿の江刺区田原出身の水沢農学校生の菊地規氏と出会い意気投合します。昭和15年頃のことです。 菊地氏の通学途中の北上川の小谷木橋付近を逍遥している時、曲想が浮かび北上夜曲ができたそうです。もちろん実体験に基づかない想像の詞だったようです。水沢高等女学校の女学生を思い浮かべたと管理人は確信しております。 二人はその後教職に進みますが、北上夜曲は、逍遥歌として、戦時中も、ひそかに歌い継がれていました。内容が内容なので隠れてこっそりと。 戦後しばらくすると、昭和20年代後半あたりから、歌声運動というものが盛り上がってきます。このムーブメントは40年代前半あたりまでは続きます。有名な新宿の「ともしび」をはじめとして全国に歌声喫茶ができ、学生や勤労青年が集まり、合唱したのです。曲は、ロシア民謡や労働歌、童謡などですが、その最大のヒットが「北上夜曲」でした。歌声喫茶から火がついた北上夜曲はダークダックスによりレコード化され、大ヒットしたことによりスタンダードになりました。 終戦直後作者不明の「異国の丘」が大ヒットし、作者探しが行なわれているところに吉田正がシベリアから復員、吉田氏はその後大作曲家になるのですが、この北上夜曲も当初作者不明でした。 管理人の個人的推測ですが、「異国の丘」と異なり、曲のモチーフから容易に作者は判明するはずなのが、しばらく不明だったのは、両先生の奥ゆかしさであると思います。 そのようなわけで、「北上夜曲」は名実ともに奥州市の曲であることがおわかりになったのではないかと思います。 つまり「北上夜曲」は水高の先輩の女子生徒を歌った曲なのです。OGのみなさん、我こそはモデルと名乗り出てください。(牽強付会か) 2006/06/25(日) 17:50 |
大安寺(060625)
コメント 水沢区の大安寺です。存命中のOBには記憶はないでしょうが、旧水沢の市街と在来線水沢駅は、大安寺と大林寺によって隔てられていました。駅への通路が細々とあけられていたのですが、だんだん広がりいわゆる駅通りが形成されました。それでも戦後しばらくは、スガハラ、グランドホテル以東は大安寺と大林寺の墓地でした。 その後、大林寺は墓所を小山崎に移転、大安寺の墓所も北側は削られ、ほとんどのOBの記憶にある駅通りは昭和30年代初頭には出来上がりました。 現在の北ホテルはもともとは大林寺の墓地で、20年代後半、移転により、岩手県南バスのターミナルができました。昭和30年代はバスの全盛期で、胆江地方のすみずみから所用、娯楽、単なるブラブラ歩きで水沢に人が集まりました。この頃が水沢の街が最も賑わった頃です。オリンピック前、ターミナルが手狭になり、小山崎下に移転しました。そして現在の水沢グランドホテルのところにあったマルサンデパートが、5階建てのビル(現在の建物)を建築して移転しました。 1階から2階へはエスカレーターが設置され、在郷からわざわざエスカレーターに乗るために、バスに乗ってくる子供もいたそうです。4階のゲームセンターや5階の大食堂の記憶はおる一定以上のOBには鮮やかではないかと思います。 大安寺は水沢藩主の留守家の菩提寺で、代々の墓所があります。それよりも有名なのは、高野長英の墓所です。昭和30〜40年代の大安寺はうっそうと樹木が茂り、夏は肝試しの好適地でした。写真の手前の広場で、よくお神楽が催されました。お寺で神事?についてはなんの疑問も持ちませんでしたが、、ようやく意味がわかったのは水高に入ってからでした。 2006/06/25(日) 16:37 |
お年寄りのライフライン復活(060624)
コメント 「亀梨文化店」や「辻山」があった水沢の駅通り角に出来た「メイプル」はジャスコを中心テナントの複合商業施設として20年以上にわたってマルサン」なきあとの水沢の商業施設の核でした。しかし郊外化の進展で、旧市内の集客力が大幅に減少し、先年ジャスコの撤退で、閉店状況にありました。 スーパーマーケットは郊外には数々立地しましたが、旧町内は「タカトヨ」のみが営業している状態でした。実は旧町内は、高齢化が原中と並んでもっとも進んでいる地域です。車を移動手段として使えないお年寄りにとっては死活問題で、行政を含めて、商業施設の誘致をすすめた結果、ジョイスがキーテナントになり4月、再オープンしました。お年寄りにとっては大変ありがたい話です。 水沢区以外の奥州市区域からの来店が望めない状況ではどう考えても、そろばん勘定が合いません。ジョイスにとっては有難迷惑な話であったことは容易に想像がつきますが、そこが地域ナンバー1スーパーとしてのノブリスオブリジェといったところでしょうか。 2006/06/24(土) 18:05 |
水沢名景:めがね橋(060624)
コメント 太日大橋以降の水沢現景は埼玉県K市の綾瀬川源兵衛(49卒)氏の投稿です。 大町、駅通り付近は暗渠になっていますが、市内を流れる乙女川は寺小路付近で、川面を見ることができます。石造りの通称「めがね橋」は水沢の紹介写真の常連です。昭和40年代頃までは釣りをしたり、網で魚をすくったりする子ども達が見かけられました。 2006/06/24(土) 17:58 |
水沢グルメ3(エイヨー食堂)
コメント 町の洋食屋さんです。東町にありました。と過去形を使用したのはどうやら閉店したようだからです。昭和30年代、家族は「マルサン」の大食堂、「ミズタン」の食堂、「ヌマタ」(現在の佐々忠あたり)が、ハレの日の外食先でしたが、当時の若者やしゃれ者は、「エイヨー食堂」や、その筋向いにある「東京亭」あたりが行き付けだったようです。「カツライス」とか「ハヤシライス」といった和風洋食ですね。カレーライスはポットで出たものです。 もっと年かさの旦那衆や支店長連中は川原小路の「丸松」、大町の「小万梅」、東町の「朝日屋」「新若松」「東ホテル」の座敷あたりがくつろぎ所だったようです。管理人は無論知りません。 先輩方でわかる人が投稿してくれたらありがたいのですが。 2006/06/17(土) 18:59 |
水沢グルメ2(エルミタージュ)
コメント フランス料理「エルミタージュ」も全国から食通が訪れます。お手軽な値段でフランス料理も堪能できるため、駐車場は県外ナンバーの博覧会です。また気取ったところがないため、エチケットを守ることが出来るのならば、小学生連れのファミリーでもOKです。 2006/06/17(土) 18:55 |
水沢グルメ1(銀蝶)
コメント 在来線水沢駅を東口に出てすぐのところにラーメンの世界では全国的に有名な「銀蝶」があります。しょう油ラーメン、みそラーメンが主体ですが、その人気は全国区、わざわざ東京方面から食べに来る人もいます。 以前、テレビの「裸の大将」でも放送されました。ご主人は昨年亡くなり、息子さんがあとを継いでいます。 2006/06/17(土) 18:50 |
水高正面玄関
コメント この正面玄関を利用したのは40代以下の世代OBでしょうか。関東地区に根付いて、しばらく帰省していないOBにとっては違和感があるかもしれません。 2006/06/17(土) 18:45 |
水高グランド(コンセントレーション)
コメント 水沢高校のグラウンドです。ピンボケになっていますが、フェンスにはコンセントレーション(集中)と表示されています。これぞ追い込みの水高です。 2006/06/17(土) 18:36 |
水沢公園桜満開(060429)
コメント 盛岡在住のOBのM氏の投稿です。水沢公園のそめよしのはあいかわらず素晴らしいですね。関東地区に居住しているとなかなか行く機会がありませんね。 2006/06/08(木) 23:16 |
水沢駅通り冬景色
コメント 水沢の駅通りです。本年(2006年)1月に撮影しました。 冬とはいえ人通りがほとんどない寂しい風景です。40歳代以上の方は、水沢駅通りの賑わいはご存知だと思います。隔世の感がありますね。 2006/06/06(火) 22:19 |
雪の駒形神社
コメント 水沢公園内にある駒形神社の雪景色です。本年(2006年)1月に撮影しました。 2006/06/06(火) 22:16 |
原田甲斐の妻の墓
コメント 山本周五郎の「樅に木は残った」は歌舞伎羅先代萩」で悪役だった仁木弾正(原田甲斐)を善玉に解釈しました。歌舞伎が基礎教養ではない現在、原田甲斐は一般的には忠臣と思われているのでしょう。「樅の木は残った」は昭和45年、NHKの大河ドラマに採用され、ご当地ブームがまきまきおこりました。 水沢も原田甲斐には多少縁があります。刃傷事件のあと、甲斐の男児は殺されましたが、妻や娘は不問となり、妻は実家に戻りました。その実家が水沢というわけです。妻は実家の墓所に葬られました。現在は、大林寺の小山崎墓地に眠っています。 2006/06/04(日) 21:51 |
アテルイ顕彰碑
コメント 郷土の英雄、アテルイの顕彰碑が実は京都の清水寺の一角にあります。 2006/06/04(日) 21:47 |
岩手銀座プラザ
コメント 石川啄木はふるさとを懐かしみ、上野駅に「そ」を聞きに行ったようですが、現代の岩手人のマルシェは「岩手銀河プラザ」です。晴海通りの歌舞伎座の向かいにあります。県のアンテナショップは多々ありますが、売り上げは北海道、沖縄のアンテナショップに続いている人気店です。同じ建物に県の東京事務所もあり、岩手情報の入手が可能です。 2006/06/04(日) 16:36 |
水沢黒石:黒石寺
コメント 蘇民祭は海外からも見物客が来ます。住職は水高OGがつとめています。 2006/06/04(日) 13:35 |
水沢黒石:奥の正法寺
コメント 水沢の数少ない日本一です。かやぶきの屋根の面積がですが。 2006/06/04(日) 13:32 |
同窓生吉田氏岩手弁護士会会長就任 コメント 昭和49年卒の吉田瑞彦氏が岩手弁護士会会長に就任しました。 |